始めに
2009年を終えるにあたって,自分の子どもの遊びの手法を,明らかにしておきたいと思う。一般的に論を展開するということは、自分の論が正しいことを他の理論と比較検証して述べる必要性のあることは解っている。しかしながら、あえて今回はたんに子どもから学んだことを整理して提案することのみとする。というのは、一つの仮説を書いているのであり、その仮説が正しいか間違っているかは実践結果によるもので、論の展開とはまた別ではないかと思うからである。以下の仮説をやってみて、効果があればやればやったら良いし、なければしなければ良いと思うのである。
小学校低学年の子ども(とくに男の子)
小学生1年〜3・4年生時代の子どもは、とりあえず悪いことから学んで成長していく時期であるように思う。行動もアグレッジブになり、言葉使いは悪くなり、嘘を平気につくようになる。ですから連絡帳などで、親との連携をはかることは、なかなか難しい。良いことなどはあまりしないし、悪いことなどはなかなか書けないものです。だから口頭で「最近だんだんワルになってきて、成長しています」てな話になってしまうものです。良いことをさせるよりも、極端に悪くならないように働きかけていくことの方が、必要であるように思います。その結果、ある時ちょうどさなぎが蝶になるように、変身していきます。それは指導者の指導によるものではなくて、その子どもの持っている内面から出てくるものです。ですから教育の英語の語源はEducation(=抽出する)であるのです。
ダメなものはダメ
子どもの施設において、最近出来るだけ「ダメ」を言わない等の提案がなされている。私は間違いであると思う。人間は、時間的空間的時代的な制限の中で生きている。したがって、出来ることと出来ないことがある。夢のようなことばかり言っていても、世の中で生きていくことはできない。夢を持ち続けることと、夢と現実が違うことを認識することは別だからだ。ですから、子ども達に「ダメなものはダメ」ときちんと伝えることは、とても大切なことである。子どもはダメと言われたら、別のものを探し出す天才である。なぜダメかをくどくど説明している間に、子どもの興味はもう別のところに行っていることが、よくあるものである。
昔はよく停電があった。停電になると、一晩中電気が点かないことがよくあったものだ。いくら怒鳴ろうが喚こうが、点かないものは点かないのである。この中で、子ども達は我慢と諦めを覚え、自分なりの工夫をして生きてきた。だから、素晴らしい創造力も芽生えたのではないだろうか。
人類の歴史の中で、いつも電気で明るい夜をおくれるようになったのは、ほんのわずかな時代である。それ以上に電気の点かない時代を、何百万年も過ごしてきたのである。
ダメなものはダメなのである。
創造性の原点は我慢と諦め
創造性とか自主性とかを尊重することが大切、考える力を培うとか言われているが、現場から見ていると、反対ではないかと思うのである。そもそも創造性・自主性・考える力などを、他人が培ってやることが出来るのであろうか。創造性・自主性・考える力は、その人本人のものである。だから、他人がそれを培うことはできない。つまり、子どもの創造性・自主性・考える力を、指導者が与えることはできないのである。
と考えるならば、大人や指導者が子どもにしてあげることが出来るのは基本的な学習(読み書き算盤)や基礎学力を培うことである。また、基本的な生活習慣の躾をしてあげることである。また基本的な人間関係の結び方を教えることである。こうしたことを教えたり、学んだりするためには、我慢と諦めの精神を持つことが必要である。我慢や諦めのできない人間は、新しい物を生むことが出来ないであろう。人生には我慢と諦めが必要で、空間的時間的時代的社会的な制約の中で生きていることを自覚して、その中でいかに生きるかを見つけることが、創造性や自主性や考える力を培うことの意味ではないかと思う。
子どもよりも先に生まれてきた存在として、明らかに我慢をしたり諦めたりすることが必要な場面があるとすれば、それを「ダメなものはダメ」と伝えることこそが必要である。
私もよく、崖の上から羽ばたいて空を飛ぶ夢をみる。しかしながら、それは夢の世界であり、現実世界では崖から飛び降りれば、たいていは死ぬから崖から飛び降りるのは「ダメ」である。
受容と共感は安易にしてはいけない
受容することと共感することが、カウンセリングの原点であると言われ、それを強く主張する人たちがいる。受容や共感はカウンセリングの手法の一つであり、専門的な知識を習得した人が実施するべきであり、安易な受容や共感は危険である。というのは、カウンセリングの手法である受容や共感を安易に使うと、人間の中にある魑魅魍魎や悪魔性が出てくるのである。こうした魑魅魍魎や人間の悪魔性を受け止める力のない人が、下手に受容や共感をすると大変なことになることが多いのだ。
だとするならば、相手の話をきちんと聞いてやることや相手の立場に立って考えてみることは、必要であるが、そうしてみても、相手の言うことが納得できないならば、「あなたの気持ちや行動は私には理解できない。そしてやはりダメなものはダメ」と伝えることが必要であろう。
痛い目にあうことも必要
体罰の禁止と言っていれば「進歩的」な人と思われるためか、体罰の禁止の主張が横行している。現実主義者の私としては、他人に怪我を負わせたり、危険な行為を繰り返す場合は、痛みを持って理解してもらうことも、時に必要であると考えている。(自分自身のことを考えてみても、痛い目にあって多くのことを学習してきた。痛い目にあうことから逃げては、何も出てこないのかもしれない)
小学生期の男の子どもは、アグレッシブである。本能的に棒を振り回し、石を投げ、平らな広いところは走り回り、カーテンにすがり、高いところにはのぼるものである。これらのことを、ほぼ無意識でやっている。だから、行動療法的に不必要なアグレッシブ的行動を制御することが必要である。それを制御する手法として、訓練・言葉による制止・理解を深めるための学習があるだろうが、時と場合によっては、多少の痛い目にあうことも必要である。そうでないと、不必要なアグレッシブ的行動により、被害を受けた子どもの救済をどうするのかの問題が起きてくる。
最近の子どもと親は、自分の子どもが被害を受ければヒステリックになるが、自分の子どもの加害行為には許容的である。こうした時代背景の中で、加害行為にどのように対処するかを考える必要性がある。
大人が叩くから子どもも真似をして叩く。大人の体罰を禁止すれば子どもも危険な行為をしないなどの空論は意味がない。むしろ危険な行為をしたら、にこやかに近づいていって、子どもの前に、子どもより低くなって危険な行為をした手や足をピチンとやり「この手は悪い手。あなたは良い子」とやれば効果的なのである。
国際化時代には
国際化時代とのことで小学校でも英語教育をとの主張がなされ始めている。私は反対ですね。それよりも、きちんとした日本語をしっかりと教えるべきです。「うざい」だの「ださい」などと話している人が、どれだけ英語を学ぶことができるのでしょうか。ロシアの教育学者ヴィゴツキーは、「きちんとした母国語を話せることが、外国語の学習の基礎である」と言っています。まず、きちんとした読み書きの教育が必要でしょう。
日本の文化や歴史を知らないで、外国のことを理解することは難しいでしょう。ですから、折り紙を子どもに私は教えるのが良いと考えています。鶴も折れないのでは国際時代に対応できません。
感情的に叱ろう
叱る時は感情的になってはいけない。「なぜ、悪いことなのかを冷静に説明しよう」などとの空論も蔓延っている。そもそもなぜ叱るのであろうか。間違いのないのは、その子の関係者であるから叱るのである。その子の関係者である以上は、その子どもとの感情的な関係性があるのである。感情的な関係性がある以上は、感情的に叱ることが必要である。自分の子どもや教え子に、感情を交えないで交流できるわけがない。だから、「感情的に叱ってはいけない」などというのは間違いである。
感情的に叱らなければならない。問題は、感情に流されすぎないことである。感情を上手くコントロールして、叱ることが必要である。子どもが危険な行為をしたら、感情をコントロールしてにこやかに近づいて「この手ダメ」と感情を込めて叱ってやろう。そして、感情をコントロールして「でも手は悪いけれどあなたは良い子」とやることが必要である。
五感ではなくて体性感覚を磨く
五感を磨くことが、大切と言われすぎているように思います。五感とは視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚ということですが、子ども達が学習が出来ない所以として、「良く見ていない・良く聞いていないから理解が出来ない」との指導者の声が聞えてくるからです。もし五感が一番大切ならばヘレンケラーは学習することが出来なかったでしょう。
現代生理学の分類では人間の感覚は@特殊感覚(視覚・聴覚・臭覚・味覚・平衡感覚)A体性感覚(触覚・圧覚・冷覚・痛覚・運動感覚)B内臓感覚(臓器感覚・内臓痛覚)に分けられているという。そして体性感覚が全ての感覚を統御しているというのである。したがって触覚・圧覚・冷覚・痛覚・運動感覚を磨くことがが大切であると私は考えている。
障害児の教育でけではなくて、本当の指導力のある人たちは、視覚・聴覚よりも体性感覚をうまく使っていることが多いのです。
脳はできるだけ使わない
人間の脳は、一つのことに集中することが必要であるという。ですから、学習とはある意味では何千回〜何万回か繰り返して行うことで、実は脳を使わなくてもオートマチックに仕事ができるようになることであるともいえるであろう。つまり九九を覚えるのは、一々考えなくても7×8が56となるように脳が考えないでも、オートマチックに活動することであるともいえる。オートマチックに出来るようになるには、体性感覚を動員して身体で覚えさせることである。また繰り返し繰り返しをしなければ、定着をすることがない。同じことを何千回も繰り返すことは、飽きてしまう。飽きないで、騙しだまし脳を活動させて、(百回ごとにやり方を変える・リズムを変える・手法を変えるなどなど)その内に脳を使わなくてもオートマチックに出来るようにすることが必要である。子どもに物を教えると言うことは、ある意味ではうまく子どもをたらかす(=騙す)技術を持つことであるとも言える。真実と言う劇薬はあまり使ってはいけない。嘘と言う常備薬はいずれ効かなくなる。嘘でも真でもないことをうまく使うことも必要である。いわゆる方便が大切である。
悪い人が悪いことをするのではなくて悪い環境が問題
危険なことや悪いことをやると、「何でそんな悪いことをするか」と説諭する人が多い。たしかに良い人は、悪い環境にあっても悪いことをしない確率が高いであろう。反対に、悪い人は悪いことをする確率が高くなるであろう。こうなると、子どもの実質陶冶が必要となるとの議論になるであろう。しかしながら俗人である私には、実質陶冶は難しい。また、マザーテレサのような人を除けば、環境に人間は大きな影響を受けてているように思う。
多くの人たちが俗人であるとの仮説を前提にして、やはり基本的には悪いことができる環境を無くする事が必要であろう。悪いことができる環境とは、不法な暴力が存在する・盗むことができるような死角がたくさんある・詐欺ができる環境にあるなどがあげられる。したがって、不法な暴力を許さない・死角をなくす・正しい知識を伝えることが必要となる。
個人主義の限界
個々人が自立することは大切である。しかしながら、人間が一人では生きていけないことも事実である。人間は一人で生きていけないのだから、人間と人間の関係性がどのようにあるべきかを常に考える必要性があるであろう。ガードナーの多重知能理論によれば、人間の知能は一つではなくて、概ね7つのモジュールになっているという。論理ー数学的知能・言語的知能・身体ー運動的知能・音楽的知能・空間的知能・個人内的知能・対人的知能である。これらの知能は、関連性を持ちながら、相互の独立したモジュールであるという。個人主義は個人内的知能を高めることを主としていると考えられるが、対人的知能を考慮に入れなければ生きてはいけない。仲間を作れることはとても大切なことである。対人的知能を高めることを大切にすることが必要である。
基本的な躾の必要性
河合隼雄先生が学校カウンセリングを始めるにあたって躾の必要性を主張されていた。日本人は母性原理ですから、子どもを甘やかしがちです。やはりどこかできちんとした躾をすることが必要です。誰が躾をすべきかではなくて、今の現状の中でできるところから躾を始める必要があるのです。躾の内容としていくつかのことがあるでしょうが会津の什の掟などは参照する価値があると思います。
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」などとの考えは封建的と思える人も多いかもしれません。しかしながら、とりあえず年上の人の考えを黙って受け入れることも仕事の中では必要です。それが出来ない人は職場でも困った存在となることが多いものです。
男女7歳にして席を同じうせず
男女共学こそが、正しいと固く信じる人がいます。どこかの女子大学に勤務しながら、「男女混合名簿こそが男女共同参画社会に必要」と力説する方もいまして、そうであるならば急いで、女子大学を辞めるべきでしょうといいたいところです。
最近の研究によると食べ物の獲得において、人間だけが、メスとオスで収穫物を違ったものにしたとのことだそうです。(http://www.nhk.or.jp/special/onair/090112.html)つまり人間の女は採取に走り、男は捕獲に走ったようです。この結果、人間の脳にも大きな変化が出たとのことです。結果的に同じIQを持つ男女でも、実際に使っている脳は違うところだというのです。だとするならば、当然学習方法においても違ったものとなるでしょう。「男女7歳にして席を同じうせず」との考えは、このことを日本人が知っていたからでしょう。席を同じくしないだけであって、一緒にいることが悪いわけではありません。つまり、女と男の学校を別にせよとのことではなくて、同じ学校であるけれどクラスを別にすればよいと思うのです。私はこの手法で、学習面において効果をあげています。女と男を一緒にすると騒ぐけれど、別の部屋で学習すれば騒ぐことが少なくなって学習効率があがります。遊ぶ時は男女一緒でも良いのです。ただしおやつを食べるのは別々です。男の子のおやつはたんなる栄養補給で、女の子のおやつはおしゃべりを通じての遊びの一種です。
隣の庭をきれいにすること
一般的に自分の家の庭をきれいにする人はいますが、他人の庭まできれいにする人はいないものです。私は変人の一種らしいので、自分の職場の子どもが遊ぶ場所は自分の土地と拡大解釈して、草取りをしています。この中で解ったことは、隣の庭をきれいにすることこそが自分の家の健康を守ることにつながるとのことでした。つまり、空気と水と血液は滞ることによって腐敗します。そこで空気が流れることが必要となります。しかしながら、ウサギの小屋状態の日本の住宅事情は、自分の家の庭をきれいにしてもそのきれいな空気は隣の家に行くのです。ゴミ屋敷の悪臭は、ゴミ屋敷の持ち主にではなくて他人の土地に流れることになるのです。
職場の隣の保育園のグランドの草取りをしていたら、強風が吹いた時に職場に今までは砂が飛んで来ていたのが、飛んでこなくなって,代わりにマイナスイオンいっぱいのきれいなそよ風が吹くようになりました。
学校のグランドも、構造的に強風が吹いても、学校に飛び砂が入らないような構造にしてあります。その分飛び砂は、近隣の住宅へと飛び込むのです。
逆転の発想で、学校のグランドの芝生化を、地域住民がボランティアで実施すればよいのです。そうすれば、緑のそよ風が吹いて来るのです。土地の資産価値も上がるのです。
デフレ時代に
デフレ時代は、若い人たちには大変な時代です。というのは賃金が上がらないからです。そして、年金生活者には一時的に有利ですが、長期的に見るとそうとも言えません。いづれ年金カットが待っているでしょう。私はデフレ時代には、社会的な需要を創出することが必要と思います。例えば防衛費をいっぱいにすることです。しかしその防衛費とは、防衛のためのものですから、核シェルターを作って地域住民を他国からの侵略から守ることです。大きな公園の地下に核シェルターを作り、そこを地域の集会場として使うというものです。もちろん管理は地域住民に任せます。逆転の発想で、フリーターや派遣切りで生活できない人が生活することもあるでしょう。でもこうしたインフラ整備が進めば仕事が多くなってきて、若い人の就業の機会も多くなるでしょう。
もう一点は森林や山の保護及び活用を図ることでしょう。そのためには汚い・きつい・勤務時間が長いことを厭わない勤労精神のある日本人がたくさんになることです。
日本人の良さ
日本人の良さは、誰でもが草取りやゴミ拾い・トイレ清掃などができることにあると私は考えています。「身分」の高い人でもこれらの活動をしても、身分が低いと言われることはありません。お茶だしや料理もそうです。誰でもがやれるのです。こうした日本文化の良さを取り戻すべきであろうと思います。お茶だしや環境整備もきちんとできないで、立派なことを言うなかれと私は思います。
デフレ時代にはみんなで助け合って、より良い地域作りをすることに価値が、出てくるように思います。というのは、どこかの国のように石油がたくさん産出されたり、金鉱脈が発見されたりなどなどのことで、急に経済が発展することはないでしょう。今までどおり人的資源の優秀さこそが、日本の宝ではないでしょうか。人的資源の優秀さとは、どんなことでもこなしていくことができる人間が居ることだと思います。そんな日本人が増えるように2010年を頑張りたいと思います。
終わりに
固定的な概念に囚われないで、今、子ども達のために何が必要か。今、自分達の地域のために何が必要かを仮説を立てて実践して上手くいったら普及して、間違ったら修正していくことが必要な時代であると私は思います。
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