■遊びの手法
 

■受容共感以外の手法 2010年1月11日  ■詳細2

■児童館・児童クラブにおける作業療法
■児童クラブ論
■子どもあれこれ





   

 始めに
 2010年になり、自分なりにこれからの子どもの相手をする場合の手法を提案しておきたい。というのは受容共感を唱えていれば、子どもはよくなるとの観念論者が、日本を席巻しているからである。
 受容共感は臨床心理学の一つの手法であり、下手をすると人間の中にある悪魔性や魑魅魍魎を引っ張り出して、かえって問題行動を悪化させることの方が多いのである。しかしながら、「受容共感」派はこの事実を見逃し、他の指導員や親が受容共感しないことが、問題行動を起こさせていると強く観念的に主張するので、問題が悪化するのである。
 私は、自分も含めて素人が、基本的に受容共感はしない方が、健全育成になると考えている。そこで受容共感以外の児童健全育成の手法を提案したい。

 愚痴を聴く・相手の立場になってみる
 
安易な受容共感は間違いであるが、相手の話をちゃんと聞いてあげることは必要である。その中で、相手の話に納得がいかないならば、「納得がいかない」顔をしても良いし、「わからない」ということも必要である。安易に、「あなたの気持ちよくわかります」なんて言わないことが大切である。相手は話をしている間に、こちらの反応を見ている。そして自分が話をしていることが、相手に受け入れられないと、自分の話が、もしかして正しくないかと考えてみる。人に話をするということは、たいていは誇張されていたり、半分嘘であったり、愚かな知識であることが多いものだ。したがって、話を聞いてくれる人がいると、話す過程の中で愚痴の愚かと病が、話す本人にも自覚できるようになるのである。これこそが本来的な話を聴くことである。安易に「あなたの気持ちは良くわかります」などとの発言は、愚かと病を強化してしまうのである。良い聞き手であることは必要であるが、そのまま受容をしてはいけないのである。黙って聴いていても、納得がいかないことは納得がいけないという顔をすることが必要である。
 共感も同様である。本当の共感は、自分の悪魔性まで自覚することが必要である。そして悪魔性や魑魅魍魎は、そんなに日常的に出してよいものではない。カウンセリングの一室で自分を見つめるための手法である。私達と人との対応は、日常的なものの中で行われている。ですから安易な共感をすることはできないであろう。その代わりに、相手の立場になってみることは必要である。「友達に馬鹿と言われた。おれはあいつを許さない。死んでやる。」との発言に、自分がもし子どもの立場になってみて、そのような状況になったとして、同じ気持ちになるかを考えてみることである。すると「怒る気持ちはわかるけれど死んでやるとまでは思わない」ということになるのである。そうしたらおのずから「あなたが死んだら私は寂しいから死なないで」とか、逆に「じゃあ一緒に死んでやろうか。それでは一緒に息を止めましょう」「苦しいね。死ぬのはやめようか」みたいな話になるのではなかろうか。

 目そらし方略を使おう
 怒る子ども・悲しむ子どもなどマイナス的な思考パターンにある場合に、あまりにも話を聴いてやると、怒りと悲しみが、倍増してしまうこともあるものです。保育園児から小学校低学年の子どもは、存在それ自体がポジティブな存在です。ですから、マイナス的思考の状況からプラス的思考の状況に導いていくことが必要です。そのために、目そらし方略を使うことが必要です。
 「友達に馬鹿と言われた。おれはあいつを許さない。死んでやる。」との発言に、「今日のおやつなんだと思う」・「今日のおやつはあなたの好きな肉まんだよ。一緒に食べようね」・「この間あなたが欲しいといっていた紙飛行機の作り方がわかったから遊ぼうか」・「あら今日のスカートは素敵なピンク色だね。誰が買ってくれたの」・「今日は外でそりすべりをしよう」とか、多様な目そらしのための言葉を指導員はできるようにしなければならない。
 目そらし方略のためには、気分一効果ということを知っておくことが必要である。気分一効果というのは、悲しみや苦しみ嬉しいとか面白いとかびっくりしたとの相反する気持ちは、人間の心の中で同居できないということである。悲しいという気持ちの子どもに、嬉しい面白いびっくりといったことを感じさせれば悲しいという気持ちは出てこなくなるのです。「友達に馬鹿と言われた。おれはあいつを許さない。死んでやる。」と言って来た子どもに、「あなた私の子どもになって。私の子どもはみんな新潟から出ていって寂しいの」「先生の子どもになりません」「○○ちゃんが子どものなってくれないと言った」とわあわあと泣いてあげます。すると子どもはびっくりして、その後に大人が泣いたので面白くなって、笑ってしまいます。指導員というのは、自分の心をコントロールして、劇遊びなどを本気になってやれる能力も必要なのです。

 ロールプレーやごっこ遊びや劇遊び
 自分の気持ちを上手くコントロールできない人は、ごっこ遊びや劇遊びや相手の立場になって考えることが苦手なことが多いものです。立場を入れ替えて遊ぶことが、ロールプレーですが、ロールプレーをやることはとても有用です。そのためには、指導者(または親)は、いつも自分が先生で相手が子ども(生徒)といったパターンから、抜け出せないようでは困ります。たまには、子どもを先生にして自分が生徒になってみましょう。
 今日は私が子どもであなたが先生です。といっておい、て子どもに「先生。誰々ちゃんが私を馬鹿といいました。俺は死んでやる」といってみましょう。それに対して子どもはなんというでしょうか。「あなたの気持ちが良くわかります。」なんては言いません。「良い子どもだから死なないで」と言ってくれる子どもが多いでしょう。このようにお互いの立場を替えるロールプレーは、相手の気持ちを理解する上で有用です。
 これを遊びにしてみると、「参りましたジャンケン遊び」となります。ジャンケンをして、負けたら膝立ち・また負けたら正座・正座で負けたら「○○様参りました」と深々とお辞儀をするのです。私の今までの経験から言うと、「受容共感派」の人たちは、子どもに深々とお辞儀をすることができないことが、多いように思います。「受容共感派」の方々の中には自分を、一段上の場所にいるとの意識が見え隠れするからです。子どもにもしっかりと深々と謝る場面を、ロールプレーでして見せてあげることも必要です。
 私がよくやるのがヤクザごっこです。二人で歩いてきて、ぶつかる場面を作ります。そこでヤクザ風に「てめえ。何をぶつかってんだよ」とすごんで見せたり、逆に「ごめんなさい」と謝って見せたりします。その上で子ども達にも同様に、ぶつかってしまった場合の謝り方を教えます。こうした日常的なごっこ遊びの中で他人に謝る謝り方を教えることも必要です。
 紙飛行機を作って私が飛ばします。この時に子ども達に「私の飛行機を念力で落とそうとしてはいけない」と言っておきます。そして飛行機が落ちた時に突然「○○ちゃん。念力妨害をしたな。許さない。謝れ」と言います。子どもは全く不当な言いがかりであるとわかりつつ「先生。念力を発して申し訳ございませんでした」と謝罪します。こうした日ごろの遊びの中で、本当にトラブルが起きた時にきちんと謝ることができるような子ども達に成長していくのです。そのためには、何よりも先生が親が指導員が、きちんと正座をして子どもの謝るなどのロールプレーができることが必要です。

 お手伝いそして作業療法
 切れやすい子ども・みんなと仲良く遊べない子ども・内気な子ども・問題行動を抱える子どもは一般的に社会の中で、自分の有用感(自分が必要とされているといった感じ)を持てない子どもが多い。「友達に馬鹿と言われた。おれはあいつを許さない。死んでやる。」との訴えに対して「今ね。先生はチラシの長方形を正方形に裁断しているのだけれど、お手伝いしてくれる」と提案して、お手伝いをしてもらうことはとても有効な手法と私は考えています。たいていの子どもはやってくれます。自分が社会に必要とされていると思えば、悪い気持ちはしないものです。
 学校でも家庭でも地域でも保育園でも児童館でも、もっと、子どもにお手伝いをさせるべきです。そして親も指導員も教員も保育士も、もっともっと草取りや木の剪定やゴミ拾いや清掃や遊具点検や後片付けをするべきです。そして、その作業の中に、子どもや地域の人たちを巻き込んでいくことが必要です。人間は自ら働きかけた(作業をした)ところには、愛着感を持つものだからです。自分が役立っているということが、自信につながるものです。下手な受容共感をする暇があったら、作業をしっかりしましょう。作業をしている状況の中で、子どもが訴えに来るくらいが良いのです。通常の母親は、たいてい家事をしている時に、子どもが兄弟げんかをしたなどと言ってくるものです。こういう時に、「子どもの話をしっかり聴いてあげましょう」なんていいう「受容共感派」には涙が出てしまいます。「今、夕飯を作っているのだけれどお手伝いをしてね。代わりにおにいちゃんにはあげないけれど、秘密のアッ子ちゃんで、このから揚げをつまんで食べてもいいよ」なんていえば子どもは大喜びです。ケンカ相手のお兄ちゃんが来たら、「あら、あなたもお手伝いお願いね」と声かけてやりましょう。そして「兄弟でお手伝いしてくれお母さんは嬉しい」と抱いてあげましょう。
 作業はいろいろなところに転がっています。いつも作業を忘れないことが大切です。生きていくことは、脳で生きていくことではありません。ほとんどのことは、身体がオートマチックにやるように出来ているのです。しっかりした作業が出来るようになることも大切ですし、作業療法は効果があると私はおもいます。

 得意を作ること
 みんながレオナルド・ダ・ヴィンチのような天才ではありません。でも、全ては出来ないけれど頑張って集中してやれば、少しは得意が見つけられるものです。人間は、得意がないと自信がなくなってしまいます。その子ども・その人なりの得意となるものを、見つけてあげることは必要です。
 でも、何がその子どもの得意となるものであるかを見つけることは、なかなか大変です。そこで、いろいろな物を用意することが必要となります。児童館児童クラブ等の活動においては、多種多様な経験が出来るようにすることも大切なことと思います。ブロック・カプラ・写し絵・サッカー・三角ベース・ゴムとび・縄跳び・料理・ダンス・絵本読み・カルタ・コマ・工作・折り紙・ジャンケン遊び・ドッジボール・自然遊び・鬼ごっこなどなどいろいろな遊びが上手く提供されることで、自由時間にはそれぞれが遊べるようにしておくことも必要です。でも同時に、ある時間においては、強制的にみんなでダンスを踊るようなことも必要です。というのは、保育園から小学校低学年の子ども達は、まだ自分の特性がわからないからです。ですからこの時期の子ども達は、とりあえず何でもやってみようという時期でもあるのです。ダンスが一見嫌いそうな子どもでも、上手い手法を用いれば楽しくやることもあるのです。太り気味で運動神経が鈍いと思っていた子どもが、パパイヤ鈴木さんのようにすごく踊りが好きで上手いこともあるのです。
 一つのことが得意になるには、失敗と挫折との繰り返しが必要です。ですから、子ども達をうまくだまくらかしながら、粘り強く頑張らせることも必要となります。我慢と諦めが出来ない人は、豊かな創造力が出てこないことも教えることが必要です。また、その子どもが何が得意なのかを、しっかりと見て取ることも必要です。ですから、上目線ではなくて文字通り膝を折って、子どもの目線のさらに下に立つことが必要となります。つまり、子どもを理解すると言いますが、理解するは英語でunderstandであり語源はunder=下・stand=立つですから下側に立つとの意味であることを、自覚する必要性があります。
 私自身のことを少し書いてみます。私は本当に小さい時はどじで何事も下手でした。私の名前は純一なのですが、周りの人は私を「鈍一」と呼んでいたそうです。(私にその覚えはないのですが)3歳くらいの時に私の祖父が「みんなは純一を鈍一・鈍一といって馬鹿にしているが、あれは将来はきっと伸びる」と予想したそうです。母も父もそうは思わなかったようですが。小学校の基礎学力は教員の父の胡坐の中で、教科書を読んでなんとかついていけたようです。こんな感じですから、ベーゴマはダメ・自転車は中学生まで乗れない・折り紙を折れば千羽鶴に採用してもらえない状況でした。ところが20歳を過ぎてから折り紙を折る機会があり、それから急速に折り紙が得意になってきました。でも新しい折り紙に出会うと、今でも何百回も折って自分の物にしています。繰り返しと我慢と諦めがなければ、新しいものなどを考え付くことは出来ないものなのです。男の子には、常に夢と希望と自信を、与えることが必要です。

 子どもの仲間つくり
 本来的に人間は仲間を求めています。ある程度の仲間がいれば、楽しく生きていくことができるからです。人間が一番つらいのはシカトされることでしょう。そこで、いろいろな手法を大人がこうじたとしても、いつもそうした手法が、子ども達同士の仲間つくりにつながる様にすることが必要です。作業療法を使うにしても、そこに他の子ども(例えばケンカ相手)が来たら、その子どもも交えて一緒に作業をすることが、必要となります。また、得意を作るにしても、そのプロセスは仲間と一緒にやるように働きかけることが必要でしょう。また強制的にみんなにダンスを躍らせるときは「他人を馬鹿にしたり、茶化したりしてはいけない」としっかり注意しておくことが必要となります。サッカーやゲームをやるときも、「仲間がいるから遊びが成立して楽しいのだ。仲間がいることに感謝が必要」と教えることが必要です。ジャンケンゲームで勝敗が決まったら、勝った人に勝因を聞いて、一番の勝因が負けてくれた人がいたことをあげる。そして勝者はみんなに「皆様のお陰で楽しく優勝できました。ありがとうございました」とお礼を言わせることが必要である。
 子どもは受容共感派の方々のように指導員の指導で伸びるのではない。その子どもの自らが持っている能力と子ども仲間の存在で伸びるのである。このことの自覚のない指導員は指導員たる資格に欠けているのではないかと私には思える。常に子どもへの働きかけが子どものやる気を起こさせ、そして何よりも子どもの仲間作りのためになるように働きかけることが必要である。

 終わりに
 これからの日本の子どもに必要なことは、観念的な受容と共感ではなくて具体的に子どもの能力が高くなり、子どもが自信を取り戻し、みんなと仲良く遊ぶことのできる具体的な手法を見つけることであると私は思っています。そのために、多くの人たちと協力して新しい手法を見つけたいと思います。

 おまけー学校臨床心理学より
 放送大学院の学校臨床心理学の中で下記のように述べられているので紹介したい。

 3、スクールカウンセリングの今日的課題
 カウンセリングと言えば、まず「受容と共感」を思い浮かべ、「躾」ということは馴染まないと感じられるかたが多いかと思うが、平成16(2004)年の学校臨床心理学(スクールカウンセラー)全国研修会において、河合隼雄先生が「躾けることと育つこと」という講演をされたので、紹介したい。
 河合先生は「20年ほど前なら、カウンセラーの仕事に躾という話は出てこなかったが、日本中の躾に混乱が起こっている今、カウンセラーも躾の問題を考えなくてはならない。カウンセラーは、社会の裏側が分かっていなくてはならない職業である」と,現在の社会状況においてスクールカウンセラーが躾に関わる必要性について説明された。躾の混乱の起こっている背景として、日本の社会や文化や考え方が急激に変化してきていることや、個性を巡る考え方に混乱が起こっているという社会状況を説明され、「躾の基本は、人間は独りでは生きてゆけない。集団で、依存し合って生きている」ことを述べられた。
 さらに河合先生は、躾の基本は人間関係であることを強調され、人間関係のないところで言われたことは「強制」になり、深い人間関係を土台にしたところでこそ躾になると説き、「日本の社会が、親が、自立した個人として躾ける。そしてスクールカウンセラーは、躾を自覚して仕事をする」ことを提言されたのである。
 スクールカウンセラーが躾に関わるということは、今日の社会状況の中での子どもの姿を、スクールカウンセラーは知っていなければならないということを意味するものである。
                           (滝口俊子著・学校臨床心理学・P19)

受容共感に変わる手法(2010年2月14日追加)

 いわゆる「受容共感派」が闊歩して日本の子ども達を悪くしている。マルクスがこの現状をみたらなんというだろうか。
 日本はある意味ではマルクスの思い描いたコミュニティではなかったのではないだろうか。
 日露戦争で日本がなんとか勝てた一つの要因は日本人が勤勉で学習が好きであったことによる。当時のロシアはまさしく格差社会階級社会であったのだ。ロシアのレーニンは日本から学んだ。それはフランス革命の精神がアメリカのインディアンから学んだのと一緒である。
 欧米人がすべてを発明発見したかのように思っている知識人が多すぎるように思う。自己尊厳の気持ちもない人間が民族や国民を語る価値がないように私は思う。

 日本人は一番子どもを大切にする民族である。これは他の民族との比較の問題である。子どもを大切にするということは女性を大切にするとのことでもある。女性が大切にされている証左はまず日本は家庭の経済を女性が握っていることが多いことにある。世界の人々の中で私が知っている限りで一番女が金を握っているように思う。次に強姦率が低いことである。強姦率が高いということは、力の弱い人が暴力を振るわれている証左でもある。強姦率が高ければ児童虐待も多くなるであろう。
 このように考えてみると、強姦率が低く、女性が金を持っている日本は子ども中心の社会であるともいえるであろう。そして今の子どもの状況は、あまりに子どもが大事にされて、それで問題行動を起こしているのに、これ以上に子どもを受け入れよと主張していることに問題がある。

 アンコを作るのに砂糖をたくさん入れたら甘くなるのではない。適度な塩が必要なのである。砂糖のみを入れて甘くしたら、小豆のおいしさがわからなくなるであろう。同様に子どもも可愛がりすぎてもいけないのである。可愛い子どもには旅をさせなくてはならないのである。
 受容共感派の間違いは、旅をさせなくてはいけない子どもの親に、もっと子どもにべったりになれと、結果的に押しつけているのである。それでうまくいかないと、子どもに精神的欠陥があったとするのである。これはもう犯罪的なことではないかと私は思うのです。

 受容共感派の間違いは、すべての人間を尊重すれば、すべてうまくいくとのスローガンに疑問を持たせないことです。「いじめを根絶する」といったようなスローガンと一緒です。スローガンとしては聞こえがよいのですが、実はなにも言っていないに等しいからです。 人間が存在する以上・・たんに人ではなくて人間と表現するがごとく・・そこには争いがないわけはないのです。仏陀も教えの中でも四苦八苦(生・老・病・死の四つの苦と愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦)と嫌なやつと一緒に会わなければならない苦しみがあると言っている。それをある程度理解して、うまく付き合うことが必要です。受容共感派が主張するように理想郷があるわけではないのです。百歩譲って、そうした理想郷があるとすればそれはキリスト教徒にであって、佛教徒もしくはすべての物に神が宿るとの考えの日本人にはないのです。このように考えると一つの理想を前提としての価値観が必要な受容共感の考えは必ずしも日本ではうまくいかないことがわかるのではないでしょうか。

 もう百歩譲って、一つの手法として受容共感的な手法があるとしましょう。でも受容共感的手法が唯一正しいとの証明がなされていません。証明がなされていないことを、自分だけが正しいと主張することは、ある意味で宗教と一緒です。受容共感教を信じられない人は救われないというのであれば、そうした宗教として主張すればよいのであり、科学的な手法と言わないことです。
 人間の問題行動を解決するには、臨床心理学的考え方を含めても、ユング派・フロイド派・行動心理学・実験心理学・家族療法・箱庭療法・ロールプレー・作業療法・動物療法・座禅・ペットを飼う・植物を育てる・音楽療法・グループワーク的手法・エンカウンターなどなどいろいろな手法があるでしょう。そのどの手法がその人に一番合っているかはなかなかわからないものです。それを自分だけが正しいと主張するのは傲慢ではないかと思うのです。

 もう一点、受容共感派が困るのは、自分の手法が上手くいかなかったときに、自分の手法を反省しないで、クライアントの問題にしてしまうことです。クライアントなり子どもなりその保護者なりに問題があるから上手くいかないとやってしまえば、自らの向上はなくなります。自らの向上を前提としないで、他人を評価する考えを持つことはおかしいのではないかと思うのです。

 子どもの問題行動をみていると、きちんとした躾をする必要のある場合が多い。男の子の本能は棒を振り回し、石を投げ、蹴り、高い所に上り、カーテンにすがり、平らなところは走り回るものである。これらは本能的に手と足が勝手にやるものである。ですから、やってよい場所と悪い場所とやって良いときと悪いときがあることを手と足に教えてやれば良いのである。「何でこんな悪いことをするの。よく考えてみなさい」などと受容共感派は言ったり、悪いことをするその心情の裏にあるものを受け入れ、その子どもの気持ちになってみるなどと主張する。でもやっている本人が無意識でやっているのですから、心情の背景など受容も共感もできないのです。できないことを受容共感した振りをしても、底が浅いので見透かされています。このことに受容共感派は気づいていません。
 ですから、危険なことをしたら、にこやかに近づいて「この手は悪い。あなたはよい子」と言ってやれば良いのです。受容共感をした振りをして、実は本当のことは理解していません。だから、子どもも逆にこの人は自分のことを理解している振りをしているけれど、本物ではなさそうだと思って、問題行動をさらにエスカレートさせていくのです。
 理解するは英語でunderstandです。文字通り下側に立つ努力をしなければいけないのに、自分だけは別の上目線にいて、子どもを理解しようなどとはおこがましいと私には思えます。言われてくやしいなら、草取りや掃除をして、子どもの目線よりも下にたってみるべきです。

 受容共感派はたいていの場合、男女共生を主張することが多い。私は、男女が共生するのには賛成です。しかしながら、男女には違いがあることも事実です。男女の脳の違いを自覚した上で、違った手法を身につけさせることが必要です。
 小学校低学年の日本の授業は明らかに女性性的な授業です。ですから、女の子よりも一般的に言語脳が2年くらい遅れている男の子には、けっこうつらいものなのです。ですから、男の子は授業中に騒いだりするのはある意味では必然です。ところが男女の脳の発達を無視して、受容共感派は「なぜ、授業中に騒ぐのか」と聞くのですが、授業に問題があるとは考えないのです。問題となるのは授業の手法と内容です。男の子でも楽しく学べる手法を教員・保育士・児童厚生員は身につける必要性があるのです。この点についての検討がなくて、問題行動を起こす原因を受容共感的に迫ってみても何もでてこないのです。

 私の教員時代の教え子の奥さんは二人の男の子のお母さんです。私はいつも
「私は二人しか子どもがいないけれど、3人はおもしろいみたい。もう一人作りな」と言っていました。彼女は
「もう疲れた。二人で十分。それに次も男だったら、イヤだし」
「次も男なら、私が責任を持つから作りな」
「本当に責任とる」
「とるよ」みたいな話をしていました。ある日
「先生、できましたよ」
「おめでとさん。良かったね」
「女の子みたい」
「じゃあ俺の子だ。なあーんちゃてね」
 彼女は3人目ができると共にますます美しくなり、元気になりました。これはきっと女性ホルモンの力のように思います。

 受容共感派の多くの人たちに共通することはジェンダーフリーがあるように思います。もし、ジェンダー(性)からフリー(自由)であるならば、なぜ人間は、生物は雄雌に分かれたのでしょうか。生き残るために性別の選択が有利だったからです。何億年の時空を越えて、生物はいきているのです。ジェンダーフリーの主張は鳥の雄に雌のように目立たないようにしろと無理強いをしていることとどれだけの代わりがあるのでしょうか。残念ながら、クジャクできれいなのは雄なのです。人間は鳥族ではないのす。このように考えてみると、性差の多くは女性ホルモンと男性ホルモンの割合が関係しているように思われます。残念ながら中性脂肪はあっても中性ホルモンはないのですから、女性性的な面と男性性的な面が人間にはあるのです。もちろん、女の人の中にも女性性的な面と男性性的な面があり、男の中にも女性性的な面と男性性的な面があります。人間は中性では生きてはいけないのです。女の人も男の人も自分の中にある女性性的な面と男性性的な面のバランスをさぐり合って生きていくことがある意味では生きていく意味なのかもしれません。

 ジェンダーフリーが考えるように、男性性・女性性が社会的な要因で作られる面がないとは言いませんが、同時に女性性・男性性も本質的なものであることも確かなのです。このことを抜きにして、問題を解決しようとすると、どこかに無理がでてしまうものです。

 ジェンダーの問題で、結婚後、男女別姓が良いとの主張もあります。しかしながら、男女別姓の本質は、女の人を自分の氏族には入れないとの差別からであることもまた確かです。佐藤淳子さんと伊藤淳一さんが結婚して場合に、淳子さんは女だから、伊藤家には入れてあげないとの差別があることも事実なのです。そして生まれた子どものみを伊藤と名乗らせるとの差別があるのです。家族観から言うならば、結婚した場合に、女でも男でもどちらかの姓を名乗るというのが、一番基本的なことであると私は思います。もし、男の姓しか名乗ってはいけないとか女の姓しか名乗ってはいけないというのなら差別でしょう。(エンゲルスの「家族、私有財産及び国家の起源」とかモーガンの「古代社会」などを読んでみれば分かることです)また、仕事の都合上、旧姓のままが良いというのであれば、それを容易にする手法を考えれば良いことです。男女別姓が正しいとすることはできません。


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