■遊びの手法
 

■作業を使ったグループワーク 2010年5月15日  ■詳細2
                        

■児童館・児童クラブにおける作業療法■児童クラブ運営論
■子どもからのあれこれ
■受容共感以外の手法





   

 

作業を使ったグループワークの展開過程について

 始めに

 私は児童館・児童クラブにおける健全育成活動において、遊びだけではなくて、作業を上手く取り入れていくことが必要であると考え始めている。児童館・児童クラブにおける集団援助活動(グループワーク)では、遊びは重要である。同時に作業も大切である。作業を中心としたグループワークの展開過程を考えてみたい。

 作業を使ったケースワークの事例で、寂しいなどで泣いている子どもを目そらし方略を使って元気にし、その後に長方形のチラシを正方形に裁断する作業療法を展開していく手法を考えてみた。その後、その子どもと周りの仲間を巻き込んでグループワーク的な展開に発展させることが必要である。しかしながら、この場合の小グループである3人〜6人の仲間を相手にすることと、本来のグループワークとは違うものであることを考えておく必要がある。ケースワークの展開から、小グループの仲間作りをすることがグループワークをしていると勘違いしている人が多すぎるのである。本来的なグループワークでは、3人〜6人程度のフェイスtoフェイスの関係性の小グループがいくつか存在し、その小グループがまた5〜10グループ存在して、小グループ同士の関係性の中で。グループワークを展開していくものであると私は考えている。つまり、グループワークにおいては、グループ同士の切磋琢磨が必要であり、その切磋琢磨の中でグループの凝集性が高まったり、仲間意識が高まったりするのである。ただし。グループワークにおける小集団の凝集性や仲間意識の高揚は、他の小グループに対して排他的であってはならない。排他的ではないけれど、仲間意識が高まるという関係性をワーカーは、上手くもっていくことが必要である。 このように考えるならば、グループワークにおいての集団の数は、概ね30人から40人くらいとなるであろう。5人から9人位の子どもを相手にして、グループワークをしていると思っているのは、基本的に錯覚しているのではないかと私は思う。

 次に考える必要のあることは、遊びではなくて作業をグループワークに取り入れるメリットについてである。第一に作業の場合であると、遊びと違って、トラブルの解決が容易であることだ。遊びの場合、例えばサッカーをしていて、オフサイドのルールをありにするかなしにするかは、その遊び集団のレディネス等において決められるであろう。しかしながら、オフサイドのルールを取り入れるのが正しいか正しくないかとか、どちらかが間違っていてどちらかが間違っていないとは限らないのである。したがって、遊びにおいて子ども達はルールを巡るトラブルに陥って、実際には遊びが成立しないことがよくあるものだ。子ども達の遊びにおけるケンカの多くは、ルールを巡る解釈とルールを守ったとか破ったとかの問題が多いのである。ところが、作業を取り入れた場合は、遊びと違って答えは明確である。作業が速くしかもきれいに適切にやれるかどうかが判断の基準としてある。子ども達にもそのことはわかるわけですから、自分の考えと違っても従うことが容易となる。そのことで「我慢と諦め」の大切さを学習することができる。この一定の限界を自覚して「我慢と諦め」ができることは、実は遊びの中における創造性や自主性を発揮するために必要なことでもあるのだ。

 作業を使ったグループワークの実際

グループ分け

 1年生〜3年生60人(1年男子10人・女子10人・2年3年も同様との仮定にする)で屋内清掃の作業をやる場合で考えみよう。みんなを集めて1年生男子10人と3年生女子5人で体育館の清掃をするようにする。3年生女子は1年生男子の指導をしながら、体育館の道具も動かして清掃をする。1年男子は体育館を雑巾のからぶきをすることにする。3年女子5人と1年女子10人は全ての部屋のガラスふきをする。3年男子10人は職員の指導の下、蛍光灯の掃除をする。2年生女子は図書室のマンガの本の整理整頓をする。2年生男子は児童クラブ室と靴箱の棚をきれいにする。

 子ども達にしっかりと伝えなければいけないことは、作業用具の使い方をきちんと指導することである。雑巾を投げて遊ばない。ほうきでチャンバラをしない。掃除機に大きなゴミを入れないで、大きなゴミは手で拾ってゴミ箱に捨てる。マンガの本を読んでいない。などなど細かい注意が必要である。そして、きれいに作業をすることがみんなのためになり、自分のためになることを身体で感じるようにすることが大切である。

 よく、子ども達の自主性や創造性に依拠せよとの考えがある。私はちょっと違うのではないかと考えている。意識化された部分だけを取り上げて、子ども達の自主性とか言ってしまえば、作業よりも自由に遊びたいということになるであろう。しかしながら、人間の意識化された部分は概ね10分の1位で、個人的な無視意識が10分の2くらい、人や動物としての無意識が10分の7くらいになるとの考えがある。つまり、人間の多くの行動は全て意識化されたものではないのである。種としての無意識で(本能で)、自分の生きている環境をきれいにしたいという心があるのである。その点をしっかりととらえることが出来れば、自分の活動する場所をきれいにすることは、子どもの本来的な無意識的な意思であることがわかるであろう。その無意識の部分にうまく乗っかってやることが大切であると私は思うのです。事実、作業が終わった後に「がんばってやってきれいになって、気持ちがいいね」と声かければほとんどの子どもは充実感を表明するものである。

 モチベーションを高める

 作業において、無意識の部分を上手く活用すると、子ども達は楽しく活動するものである。子どもは選択肢を作ってやれば、選択肢を選ぼうとして、結果的に作業をすることになる。作業を始める時に「今日は屋内清掃をやります」ではダメである。多くの子どもは「自由に遊びたい」と言い始めるものである。そこで「今日は清掃をやります」と『が』協調したあとに、「屋内清掃が良いか、屋外清掃が良いか、ローラースケート場清掃が良いか」と子ども達に尋ねます。もちろん、雨で屋外清掃は出来ない状態であってもこのような尋ね方をします。すると人間は二択もしくは三択を迫られると、無意識に選ぼうとするものです。この時に自分が選んだ選択肢をやらねばならないと思ってしまうのです。本当は清掃をやらないで、マンガを読むとか遊んでいるとかの選択肢もあるのですが、それを忘れてしまうのです。選択肢の中で、雨ですから、屋内清掃が子ども達に選択されることになります。もちろん、元気な子どもがローラースケート場を清掃するとの選択をしたとすれば、雨具を着用して、「ローラースケート場は雨で滑るから気をつけてやろう」となることもあるのです。雨が降った時にローラースケート場を清掃すれば、黄砂などをきれいにすることができて、とても良いことでもあるのです。子ども達のモチベーションを高めるためには、二つ以上の選択肢を用意して、子ども自身の選択を大切にすることです。 モチベーションを高めるためには、少しずつ変化をさせることです。毎回、同じパターンでは飽きてしまうのです。「またか」との感情を持たせないことが必要です。「今日は屋内清掃をする」とか「屋内清掃をする」「屋内清掃をする」などと言い方を変えるだけで「なんだろう?」と興味を持つものです。昔、校長先生の長話というのがありましたが、これを反面教師にする必要があります。また、作業中でも「ゆっくりモード」「2倍速モード」「3倍速モード」などとモードを切り替えれば、楽しく作業ができるものです。

 作業過程での子ども達の変容

 人間は同一の目的を持って、一緒の活動をすると仲間意識が出て、仲良くなり、コミュニケーション能力を高めるものである。遊びの場合は目的性がなく、自主的な自由な活動であるから、その点ではとても効果がある。同時に遊びでは、競い合うことも多く、逆に子ども達がライバルとなってケンカの要因になることも多いものである。作業の場合は目的が、遊ぶ場をきれいにするというようにはっきりしているので、競い合ってもライバルとしての張り合うことがなく、ケンカの要因が少ない。そこで、同じ目的に向かっての仲間意識が高まりやすい。グループワークにおける人間関係は、人格的民主的な関係性を目指すものであるが、たんに作業をやらせるだけでは、そうした関係はできることはない。意図的なワーカーの働きかけが必要である。昨今の少子時代の中、自己中心でわがままな子どもが増加している。清掃用具等を使って他人に危害を加えたり、他人の人格を傷つける言動がなされることが多々ある。こうした行為や言動を厳しくさせないことが必要である。男の子はきちんとしたワーカーとの関係性がしていれば、厳しく接しても分かってくれるものである。そもそも男の子の多くは無意識で棒があったら振り回し、石があったら投げ、高いところにのぼり、一番になりたいと、前の人を押しのけるのである。無意識・本能的にやっているのですから、「箒を振り回したこの手は悪い」としっかり叱って「でもあなたは良い子です」と褒めてあげれば、危険な行為はしなくなるのです。一番やっていけないのは、「どうして箒を振り回すのです。危険でしょう。よく考えてみなさい。あなたは何を考えているの」などと男の子の自尊心を傷つける言動で注意をすることです。女の子ども達はアグレッシブな男の子が叱られるのを見ていて、社会的参照能力を発揮して、危険な行為や他人を傷つける言動をしなくなるものです。
 清掃用具等のきちんとした使用方法を理解させ、危険な行為や人格を傷つける言動をさせないようにすれば、子ども達は自然と自らの能力を発揮して、頑張ってきます。この時にワーカーは適切な励ましの言葉をかけることが大切です。とくにその前に箒を振り回して叱られた子どもにはフォローの意味も含めて褒めてあげましょう。「ともやん。箒の使い方が上手くなったね。やるなあ」などの声かけが必要です。子どもを叱るということは悪いことをやったから叱るのではなくて、実はその後に褒めるために叱るのです。これは脳科学者の茂木さんの言葉です。私は全くその通りだと思います。叱らなくてはならない場面を見つけて、しっかりと叱り、その後にきちんと褒めることで効果が倍増するのです。 このように叱咤激励していくと、子ども達は仲間同士で助け合ってより良い活動をしていきます。小グループの中に「我々感情」が芽生えてきます。
 小グループの中で「我々感情」が芽生え、助け合いの気持ちが出てくると、他のグループもお互いにそれ以外のグループから学び始めます。グループワークにおいて各小グループが閉鎖的排他的にならないように工夫することが大切です。そうしないとせっかく芽生えた小グループでの「我々感情」は自己中心的で排他的なものになってしまいます。例えば、積み木などの後片付けをする時にグループで競争しての片づけをするとします。すぐに他のグループの上手いやり方を真似ようとすると、「真似をするな」などの言動が出てきます。こうした言動を許すならば、グループワークの目指すものとは異なったものになってしまうのです。

 作業を変化させることについて

 子ども達とくに男の子の一つの作業における集中時間は概ね15分以内であるようだ。動物の多くは草食動物であれ肉食動物であれ雑食動物であれ、オスもメスも基本的な食糧は一緒である。ところが人間はその発達過程の中で女の人は採取に男の人は狩猟を主として食糧を得るようになったという。この発達のプロセスの中で女の人は社会的参照能力を高め、男は一つのことに集中するようになったらしい。採取においてはみんなの意見を聴いたり、相談したりして、「このリンゴはもう食べられる」とか「「イチゴはまだだ」とか判断することが大切である。しかしながら、シカを捕ったり、マンモスを捕獲するためには、みんなと話し合いをすることは、声を出すだけ、不利となります。話し合いではなくて、獲物を追いかける強い集中力が必要となります。このような発達の結果、女の人は比較的に長い間、作業を続けることができる。しかしながら、男は15分くらいごとに変化させないと作業を続けることが難しくなるのである。仮に男女の性差の問題が仮説のようなものでないとしても、私の経験智からいっても、低学年の男の子の集中時間は10分程度であることは間違いない。

 そこで30分間作業をさせる場合でも、10分くらいの単位で作業のやり方を変化させることが大切である。そうしないと低学年の男子は飽きてきて、騒いだり、ケンカをしたりするものである。女の子も男の子に引きずられて騒いだり、男の子を注意して男の子が手を出して女の子が怪我をするなどの結果になる。

体育遊戯室の雑巾がけをする場合でも、まず3分の1をゆっくり太極拳のようなスピードで拭いてみる。次の3分の1を倍速モードで速く拭いてみる。最後の3分の1を普通モードで拭いてみる。というように変化させれば、子ども達はその変化に対応することが忙しくなるから、ケンカをする暇はなくなるのである。もちろん、スピードの変化だけではなくて、座って拭く。足を立てて吹く。音楽にあわせて吹く。体育館の床を拭く。腰板を拭く、などなどいろいろな変容を10分単位くらいでやってみることが必要である。また、ときに拭くのをやめさせて、「ともやんの拭き方はなかなか面白い。ともやん。ちょっとやってみて」などと声をかけて、上手い拭き方を見せて、またみんなでやらせてみることなども必要である。昨日(平成22年5月11日)男の子30人くらいでチューリップのプランタの雑草を引っこ抜く作業をやった。いつもはふざけてばかりいて叱られてばかりいる4年生男子が珍しく、プランタの中の雑草を徹底的にきれいにした。そこで「みんなストップ。けんちゃんとそう君がとてもきれいに雑草を抜いてきれいにした。みんな見てみましょう」と話をしたら、みんなが見に来た。その後に作業を再開したら、「おれらももっときれいにするぞ」と張り切ってまた作業を続けることとなった。

  作業の終了過程 

 一つに作業のグループワークの過程は必ず終了するものである、いろいろあって叱咤したとしても、終わらせ方が大切である。作業の初期過程の中で、最終的に褒めるため叱る場面を見つけて、しっかりと叱り、そして褒めてやれば、最終過程は「よく頑張った。きれいになった。またやろう」といったパターンで終われるのです。このことをしっかりと考えてやらないと、作業中に怪我をさせたり、人格を傷つける言動を引き起こしたりするものです。作業の終了過程で最終的に褒めて終われるようにすることが大切です。
 また作業自体が目的ではないのですから、時間的に子どもにとって無理の範疇になれば、途中で中止することも必要です。グループワークとして上手く終わることが必要です。作業のグループワークは一度で終わるものではないのですから、また次の作業のグループワークの中で発展すればよいと考えるのが大切と思います。

 ときには、雑草抜きの作業が終えた後に、子ども自身が「もう少しやろうかな」などと嬉しいことを言ってくれることもあります。ワーカーはそうした小グループと作業を続けながら、自由遊びを始めて子ども達の見守りをすることが必要です。

児童館・児童クラブでの作業の経験が自宅でもやるようなきっかけになることが必要と思っています。先日、いつも背広でお迎えに来るお父さんが、普段着で早目に子どもを迎えに来ました。「お父さん。今日はお休みですか」「休みなので、子どもと一緒に庭の草取りをしようと思います。」その翌日「昨日はどうでした。」「がんばってやってくれました」「ご褒美は?」「真心です」「それはよかった」みたいな会話がありました。作業が終わった後のご褒美は物質的なものからだんだんと精神的なものへと、低次なものから高次なものへと発展させていくことが必要でしょう。でも遊びのグループワークにおけるご褒美とは違い、作業的なグループワークにおいては、それなりに環境美化といった成果をあげているわけですから、そのエネルギーに応じた程度のご褒美があるのはかまわないと私は思っています。ただし、ご褒美を目的として作業をさせてくれ等の提案に安易に妥協するのは禁物です。また「お手伝いをして」との提案に「何くれる」等のパターンのものは意味がないように思います。

グループワークの展開の基本と思うこと

いろいろなことを思って活動していると、だんだんに言葉には出ない子どもの声が聞こえてくるようになります。子どもの意識部分における自己中心的な気持ちと、子どもの無意識的な部分における気持ちが同じではないことが多いものです。また子どもが言語化した部分の気持ちと非言語的な部分の気持ちではずいぶんと違うものです。この違いを感じ取る感性が児童館・児童クラブの職員には必要と思います。こうした感性を養うためには、生きている子どもと常に真剣勝負・一期一会の気持ちで接することが必要であると私は思います。

男の子に「折り紙を一緒に作らない?」と聞くと「やらない」と答えることが多いものです。そこで「折り紙の色は赤がいい?黄色?青?」と聞くと「じゃあ青をちょうだい」と言います。この場合で考えてみましょう。「やらない」との言葉を言葉通りに受け取ると折り紙をしないとのことになります。でもこれは言語化した言葉と無意識の本音が違うのです。本音としては「私はそんなに安易にあなたのいうことを聞く人間ではありません。先生。少し甘いんじゃない。でもそんな風にいうと嫌がられるから『やらない』と答えておきましょう」ということになります。そこで私は「私もそんなにあなたが安易な人とは思っていません。けっこう私もあなたに気遣いをしていますよ。だから、一緒にやりましょうよ」との気持ちを「折り紙の色は赤がいい?黄色がいい?青がいい?」言語的に表現します。すると子どもは「そこまでお気遣いいただくなら、やりましょう」非言語的に思って言語的には「じゃあ青をちょうだい」と言っているのです。ここら辺の言語的な部分と非言語的な部分のことがわからないと子どもの相手や人間の相手をすることは難しくなるのです。もう一例を紹介してみましょう。

おやつの準備をする時に「誰かお手伝いしてくれないかな」と言うと必ず「俺はしない」と言い出す子どもがいます。こうした子どもは遊び相手がいないのでアンテナをめぐらしていて、自分をアピールしたくてならないのです。「おれはしない」との言語的な表現は「私はひましています。先生 私の相手もしてください」との非言語的な思いであることが多いものです。ですから「そうか。ともやん。手伝ってくれるか。ありがとう」と答えてやることが必要です。子どもは言語的には「おれはしないよ」と言うでしょうが、非言語的には「先生、声をかけてくれてありがとう。お手伝いします」ということになる。そこで、おやつを並べるなどの手伝いをしてもらうと喜んでやってくれることになるのである。

私達が考えなくてはいけないことは、同じ「おれはしない」でも場面によっては、まったく違った表現であることがあることです。つまり、「おれはしない」との言語的な表現が実はお手伝いしたいとの非言語的な表現である場合とそうではない場合があるのです。場の論理によってまったく違ったものになるのです。前記の場合、みんなが遊んでいる場面で「誰かお手伝いしてくらないかな」と言った場合は、たいていの子どもたちは遊びに熱中しているので、「おれはしない」といった子どもは充分に満足していない子どもといえるでしょう。ですから、お手伝いを半強制的にやらせることがその子どもの無意識的なニーズに合致します。
 場面が違って、遊んでいる子ども達の遊びを全面的に中止させ、おやつの準備をするために「誰かお手伝いしてくれないかな」と言うと必ず「おれはしない」と言う子どもが出てくる場合です。この時に発言する子どもの無意識的な「おれはしない」は前記の「おれはしない」とはまったく違うのです。全体をストップしてみんなの注目をさせてやる場合の「おれはしない」は実は「私は先生をボスとは認めていない。みんな先生の言うことを聞かないようにせよ」との無意識的な表明なのです。これを許せば結果的に学級崩壊やクラブ崩壊へとつながります。つまり全体の危機管理も出来ない人が実権を握ることになるからです。もちろんほぼ無能な指導員の場合は優秀な子どもが実権を握っているほうが良い場合もありますが、一般的には全体の管理は職員が握るべきなのです。みんなの遊びを停止して「誰かお手伝いをしてくれないかな」に対して、「おれはしない」との発言に対して「余計なことはいう必要はない」との厳しい叱責が必要です。これは「おれが全体管理をしているボスである。あなたはボスではない」との非言語的な表現なのです。場面が違うと、同じ表現でもまったく違ったことであることを理解することが必要です。

 グループワークで考えなくてはならないことは、ワーカーが何をするかではなくて、小グループが何をして、そのことで小グループ同士の切磋琢磨が生じて、小グループが良い方向に変容して、小グループの中における個々人がどのように変容するかを考えることではないかと私は強く感じています。この時にたんなる遊びや工作等消費的な活動の場合は、どうしてもそこに目的性が欠如してしまうのではないかと思うのです。つまり、グループワークのための必要な活動がされて、しかもそのためには消費しなければならないのです。折り紙を折るとしても植物が生産した植物繊維を消費する活動であるかもしれないのです。そこで、グループワークの活動の内容を作業にすれば、それは生産的な活動になるのです。つまり、草取りをやり、ジャガイモを栽培すれば、それは人間にとって酸素を生み出し、ついでに植物としてのジャガイモの光合成を促し、その茎にでんぷんを蓄えることになります。つまり、遊びは消費的な活動であるけれど作業は生産的な活動であるのです。人間は生存を維持するために作業をすることが必要でした。しかしながら、作業的な労働だけではなくて、遊び的な要素が人間の発達を人間のために必要なことがわかってきました。ですから遊びは人間にとって必要であることは間違いがありません。しかしながら、今の日本の状況はまったく別の状況であることを自覚することが必要なのです。つまり、高度成長&バブル経済との錯覚の中で勤労&勤勉が無くなり、自己中心的で享楽的&刹那的文化及び非社会的文化が謳歌しているのです。これは日本にとって良いことではありません。そのように考えてみると、もういちど作業や労働や草取りやトイレ清掃が大切であるとの文化を取り戻すべきであると私は強く思っています。そこで作業を通したケースワーク・グループワークを強く主張するのです。

 私は今まで係長でしたから、たいていのことは自分でやってきました。4年前にセンター長になり多忙になりました。児童厚生員と用務員とセンター長兼務みたいになったからです。来館者の対応も必要となりました。そこで来館した職員にお客さんが来たので「お茶を出してください」と伝えてもお茶は出てくるのですが、お客さんが帰っても飲み終わった茶碗はそのままにいつまでもなっているのでした。(もちろん今はそんなことはありませんが)「お茶を出してください」と表現された言葉は、お茶を出し、お客が帰ったら片付けて、洗って、拭いて、茶碗をもとの場所に戻すとの一連の行為をさしています。お客さんの前で「お茶を出して、お帰りになったら片付けて、洗って拭いて、もとに戻しておきなさい」とは指示しないのです。生命体としての人間は「お茶を出して」との言語的表明で一連の行為を理解できるようにシステム化されているのです。ロボットのようにいちいちプログラミングしなければできない存在ではないのです。ロボットのようにシステム化して教えると主張する人もいますが、それだけでは、けっして人間の行為は理解できないのです。例えば、「お茶を出して」と言われて、場面的にそのお客さんがいつも飲むのがコーヒーのブラックであるならば、「お茶をだして」の答えとしてコーヒーとお菓子が用意されることもあるのです。これは阿吽の呼吸なのです。けっしてロボットには出来ないことなのです。そして優秀な人は「お茶を出して」とのことに、お茶を出す過程で茶碗が汚れていないか、お茶が切れそうでないか、ポットのお湯を足す必要性がないか、布巾の除菌の必要性がないか等のことまでもチェックできるのです。こうしたことが、マニュアル化と消費的な文化などで、一つの生命体としての統合性が欠如し、出来ない子どもや大人が増加している時代ではないかと私は感じています。日ごろの家庭や地域、施設での作業が極端に少なくなったために、子ども同士の遊びにも悪い影響を与えています。つまり作業同様に遊びの一連の統合されたものなのですが、その統合性が理解されなくなっているのです。遊び用具を準備したり片付ける人と遊び人が分離をし始めているのです。折り紙でやる場合で考えてみれば、このことは明白となります。つまり、市販の折り紙が用意され、一人3枚までなどと制限がされます。その状況で子ども達は折り紙をします。でも失敗した折り紙を片付けたり、未使用の折り紙をそのままにしてしまいます。そこで「遊んだ後は片づけをしましょう」などの掲示が必要となります。私流のやり方をしてみましょう。コンビニ等から要らなくなった長方形のチラシをもらってきます。それを子ども達とカール(危険でない裁断機)を使って正方形に裁断します。そしてみんなで紙飛行機作りなどをします。紙飛行機作りが終わったら、家に持ち帰る紙飛行機はそれぞれのバック等に片付けさせます。その後に未使用のオリジナル折り紙は整理して折り紙の格納場所に格納します。失敗した作品や要らなくなったものはまた広げて、シュレッダーで裁断してリサイクルに回します。シュレッダーがいっぱいになったら、ゴミ袋に入れてごみステーションまで運ばせます。折り紙を折って遊ぶとは、紙を正方形に切り、遊び、要らなくなったものをシュレッダーにかけ、部屋をきれいにするとの作業と遊びが一緒になった一連の過程と子どもに身体で覚えさせることが必要です。

 生命体としての人間の選択の手法は予め、遺伝子的に多くがプログラミングされていると思うのです。そのプログラミングを上手education(抽出する=教育)ことが大切と思います。ですから、子どもの健全育成とは子どもをすこやかに育てることではなくて、子どもがすこやかに育つような援助をすることであると思います。つまり、子どもの中にはすでに生命として自分を統合的に実現しようとする能力が備わっているのです。子育てにおいて親の存在は必要でしょうし、重要でしょう。しかしながら、不可欠であるわけでもないのです。「親がなくても子は育つ」とは一つの真理なのです。もし「親がなくても子が育つ」ことが間違いであるならば、出産時に母親が死亡し、子どもだけが生命が助かった場合に、子どもは育たないことになるのです。日本の妊産婦死亡率は2004年で10万人当たり4.4人です。医学の進歩の結果、妊産婦死亡率は1975年の28.7人から比べれば少なくなっています。しかしながら、確率論的に妊産婦死亡率を0にすることは不可能でしょう。出産とはそれだけ危険を伴うことであるのは間違いなのです。母親がいることが子育てにとって不可欠な要件であるならば、子どもは元気に生まれたが、母親は亡くなった場合に子どもは生きてはいけないことになってしまいます。ですから、子ども自身の中には生きようとすでにプログラミングされた能力があることを私達は自覚しておくことが必要なのです。そしてそのプログラムとはかなり統合的なものであるのです。そこらへんを考えないで、子どもに何でもやってやってしまうと、子ども自身の能力が育たなくなってしまうのではないかと私は危惧しています。「折り紙をしよう」との提案にいろいろなこと(チラシを切る・鋏を用意する・折り紙の本を使う・シュレッダーを使う・清掃をする・低学年の子どもを教えてやるなどなど)が出来るような子どもを育てる必要があると私は思います。そのためには児童館・児童クラブにおいては遊びだけに拘らないで作業を大胆に取り入れることが必要であると思います。


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