児童健全育成指導士 田中 純一
少子化第2期の時代となったと私は考えている。少子化第2期というのは、お母さんお父さんが一人っ子二人っ子で子どもにはいとこやおじさんおばさんが少なくなり、一人の子どもに多くの大人が関わる時代になったということである。この結果自己中心でわがままな子どもが増えてきている。親自身も自己中心でわがままな人も増加している。友達とうまく遊べない子どもが増加し、室内での孤独な遊びが増えている。こうした中で人間関係を育む群れ遊びが必要といわれ始めているが、現場では泣く・喚く・切れる・我慢ができない・遊びのルールが守れない子どもが多いために異年齢の群れ遊びは危険が伴いなかなか実施することができない。
空論ではなくて現場から異年齢の群れ遊びを復活させるための手段を提案し、皆さんの活動の一助になり、しかも異年齢の群れ遊びの復活のための情報交換になればと思う。なお以下の提案は分離されたものではなくて、それぞれにリンクしながら実際には活動することが必要である。
群れ遊びとは?遊びとは?(2004年4月11日追加)
群れ遊びの復活と書いたけれど、そもそも私自身が遊びと群れ遊びについての見解がなかった。そこで私自身の遊びと群れ遊びについての考え方を明らかにしておくことにした。
まず第1に私は遊びというのは子どもにとって呼吸をすることと一緒と考えている。これは岡田陽先生に教えていただいたことだ。人間は生きていく上で多くのことを学ぶ必要がある。しかしながら呼吸と一緒で吸うだけでは息が詰まって苦しくなる。それを思い切って吐き出すことも大切なのだという。遊びは子ども自身が自分の内にあるものを表現する(表に現す)活動である。ジャンケン遊びを教えたつもりが、終わった後に「先生もう終わった?遊びに行ってもいい?」と聞かれるようでは遊びではなく押し付けをしたまでのことである。逆に最初は無理やりにジャンケン遊びを始めたにしても(最近の子どもはちょっと強引にさせなければならないこともあるので)結果として自らが楽しく遊び始めればそれは子ども自らの遊びへと変容しているのである。
第2に遊びはまねっこである。人間は他の人の行動を見て真似をしたい動物である。まねっこは大いに奨励されるべきである。真似をし、真似をされることでまるで自分の行動が鏡に映し出されるように見えてくるものである。群れ遊びが必要なのはいろいろな人の行動を見ることで自分自身を見ることにもなるからである。群れ遊びが子ども同士の人間関係を作るのに必要な点がそこにあると思う。群れ遊びは缶けりなどの異年齢・異世代一緒の外遊び等にとどまるわけではない。屋内における紙飛行機作りでもそこにまねっこがあり、子ども同士の切磋琢磨があれば、群れ遊びとなると私は考えている。また異年齢・異世代が一緒に遊ぶ群れ遊びは同年齢だけの遊びよりも余裕がある。学ぶ対象としての年上の存在・自分よりも下手な年下の存在は子どもたちに余裕を与えるのである。
第3に遊びとはルールのあるケンカと私は考えている。野球は棒でボールを叩くことだし、ドッジボールはボールのぶつけ合いだ。子どもたちはルールあるケンカ(=遊び)を通し、やって良いことと悪いことを学んでいく。小ゲンカは見守り、中ゲンカは注意し、大ゲンカはやめさせる。こうしたサポートをすることで子どもたちのより良い仲間作りを図ることが必要と考えている。遊びはケンカだから仲間がいないとできない。群れ遊びが必要な所以である。
遊び場環境作りの提案の追加(2004年5月22日追加)
第9提案で自然との遊びを増やそうとのことを書いた。児童厚生員や子どもの仕事に携わる人の一番大切な仕事は遊び場環境作りであるとの提案である。9番目にあるから第9番に大切なのではなくて、むしろすべての提案の中で一番大切なものと考えている。
さて追加を書き始めたのは私が提案したいのは子どもの遊び場環境作りであって、きれいな環境作りではないのである。環境がきれいであっても子どもが入って遊べないような環境は作ることを提案しているのではないのである。児童館の職員や教員でも花壇をきれいにして、子どもに「入るな」と怒鳴っている人がいる。もちろん危険なことややっていけないことを叱ることは大切だが、人間の子どもが遊ぶことのほうが花をめでるより大切なのである。花壇を作って子どもの遊び場が減るくらいなら、花壇を作らなければ良いのである。
もう一つ追加したいと思ったのは、1週間ほど前にBSRのテレビを観ていたときのことである。Jリーグの川渕チェアマンと誰かの対談であっ。その中で芝生が子どもにとって大切との話をしていた。人間の子どもは芝生で転げまわってスキンシップすると言いという話である。神戸で土のグランドを芝生にする運動が始まってから、芝生で遊びたいから学校を休まない子どもが出てきたとの話であった。
私の職場でも草取りをし、枯れそうになっていた芝生が復活した。子どもたちは芝生で転げまわって群れて遊んでいる。学校は行きたくなくても児童センターには来たいという子どもが多い。親が迎えに来てもめてないている。「何で?」と聞くと「まだ遊んでいたい。迎えが早すぎた」と親子喧嘩をしている。
子どもの遊び場環境作りとは端的に言えば子どもが転げまわれる芝生の場所を作ることかもしれない。私もさっそく、土の場所を芝生の場所にしようと思う。
緑の中でみんな元気。児童遊園や児童館を緑いっぱいの子どもの遊び場にするのが児童厚生員の一番の仕事と思う。
量をこなすことが質的転換を生む(2005年5月25日追加)
量をこなすことが質的な転換を生むのはなぜだろうかを考えてみた。
ドングリストラップを作るためにドングリをコーテングすることが必要である。10ヶ位のドングリをコーテングするのなら女性の使うマニキアをドングリに塗ってやればよい。(なおこれも20ヶ近くなると大変なのでドングリにヒートンをつけそのヒートンを洗濯バサミで挟んでやると良い=質的な転換である)しかしながらドングリストラップを1000ヶ作ろうと思うとマニキアでは手に負えなくなる。1000ヶのドングリにマニキアを塗る続ける作業は疲れ果てる。その結果奴隷労働的になり質的に劣化し、きれいニスが塗れなくなる。量が増えることにより、室の低下を生む。
1000ヶのドングリをうまくニスがけをするためには試行錯誤が必要であった。試行錯誤の後にドングリを袋に入れて油性ニスを入れてまぶせばうまくニスがけできることがわかった。
http://members.ecatv.home.ne.jp/tomoyant/sizen/aodonguri.html
量をこなすためにはアイディアが必要である。このときに脳が活性化し、質的転換のアイディアを生むようなのである。
昨日、風車作りをしたが、実習生に作らせた風車のセットが200セットの内150セットは3枚ばねの1枚が逆回転にせっとしてあった。昨日は15人の風車の参加で10人分を修理すればよかった。ところが150セットを修繕することはとても大変である。そこで考えた3枚ばねを2枚ばねでまわして、もう一枚は下にセットしたのである。このことで風車はうまく回転し、今までとは違った風車が出来上がった。大量の数をこなすことがなければアイディアは浮かべる必要はなかった。とにかく多数をこなす、量をこなすことが脳の活性化のポイントである。
逆に考えてみると質的な転換を図るためにはとにかく量をこなすことである。ただ量をこなす単純作業は疲れるので常に新しいアイディアを取り入れ、工夫をして、試行錯誤をすることを意図的に行うことである。スピードを変える・大きさを変える・参加人数を変えるなどなどいろいろな手法を取り入れることで質的転化への道を探すことが必要である。
私のような子ども相手の仕事も一緒である。たくさんの子どもたちとふれあい、たくさんの子ども達からunderstand(=下側に立つ=理解する)ことが質的な転換を生み、本当の子ども理解へとつながる道へと案内してくれるように思う。
私は小人数学級には反対である。子どもたちは多人数の子ども同士の切磋琢磨で成長する。少人数は子どもたちの切磋琢磨の機会を減少させる。36人を二クラスにするよりも、36人一クラスにして教員を二人配当すればよいのである。
少子時代こそ多人数を保障することが大切である。
量をこなすことが質的な転換を生むということを大切にしたいと思う。
仲良くなるこつは名前をお互いに呼び合うことから始めるのが良いとの錯覚がある。「今度転校してきたともやんです。前の小学校では不登校になってので、心機一転するために転校してきました。よろしくお願いします。」などと自己紹介をする子どもなどはいない。またあかちゃんは自分の名前を知らなかったり、しゃべれなかったりするけれど、他の子どもが楽しく遊んでいると必ずよってくる。このことから遊びには名前が必要のないことが分かる。名前をいらない遊びを増やすことにより、異年齢・異世代が一緒に遊ぶことが可能となる。
ダルマさんが転んだをやるときでも、「赤い服の子ども」とか「ともやんの隣の女の子」といった言い方で良いことにすればいいのである。私の職場では新しい子どもが児童クラブに入会しても歓迎会をしないし、自己紹介や紹介もしない。子どもは遊びの中で仲良しになり、必要に応じて名前を覚えるものである。名前のいらない遊びを増やすことで仲間作りが容易になる。
最近の子どもは負けることが嫌いである。負けると我慢が出来なくて遊びを継続することができない。そこでツーパワー・スリーパワーで遊ぶことを行っている。トランプで七並べをするときに8人の子どもがいたら、1組のトランプだけを用いて、ツーパワー(二人組)4グループで七並べをするのである。ツーパワーになった二人は協力してカードを持つ係・出す係などになる。途中でもう一人入ったらツーパワーをスリーパワーにすればよい。負けの悔しさはツーパワーになることにより半減し、かつ喜びは倍になる。
ツーパワー・スリーパワーの手法を野球やキックベース・ドッジボール・陣取りなどにも活用するとルールの分からない子どもも仲間に入れることが出来る。小さい子どもを仲間に入れても不利にならない。バックギャモンなどの通常二人でやるゲームもサイコロを振る係・動かす係・良い目が出るように祈る係の3人組対3人組6人で遊ぶことが出来るようになる。
子どもの遊びのルールを教えるときに二つまでにするという原則である。ワンは一つ・ツーはツインの二つだが、スリーはスライスが語源でたくさんとの意味だそうだ。引っ張り出し鬼をするのに、「丸の中に入ること」「オニは外から引っ張りだすこと」の二つのルールを最初は教えるだけのほうが良い。「立ってはいけない」「キックはダメ」「片足をオニは入れてよい」「足首と手首だけをひく」などのルールを縷々と説明しても誰も聞いていない。スリーはたくさん過ぎてダメなのである。
二つのルールを教えてともかく始める。途中で危険な行為があったり、ルール確認の必要性があったときにゲームをちょっとストップし、きちんとアドバイスをし、さっと再開することが必要である。これを頭をとってちょきんさの原則と私は言っている。ワン・ツー・スリーの原則とちょきんさの原則をうまく使うと遊びながら遊びのルールを徐々に教えることが出来るようになる。
最近の子どもは極端に負けを嫌い、我慢ができない子どもが多い。そこでジャンケン遊びなどで負けを我慢するロールプレーの遊びが必要である。
参りましたジャンケン遊びは二人でジャンケンをし、負けたら膝立ち、また負けたら正座・正座で負けたら相手に「参りました」と深々と頭を下げるというものである。大人が子どもの負けると子どもは大喜びである。でも子どもが負けたときは子どもが深々と「参りました」という。こんなロールプレーをすると楽しく我慢ができるようになる。先生ごっこなどのごっこ遊びの役割はジャンケン等で決めて誰もがいろいろな役割をできるようにすることが大切である。そうでないと、いつも先生役の子どもが威張ってばかりいることになる。大人も同じで子どもに威張ってばかりいないでたまに子どもの役になってみるのも良い。
五感の考えから脱却し、体性感覚を取り入れた遊びを増やすことが大切である。五感とは視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚である。五感が大切ということで、実はうまくいかなかった時に「いつもあなたはちゃんと聞いていないから・見ていないから」と指導者の言い訳に五感が使われることが多いのである。私たちが理解するということは本当は身体で理解することが大事である。体性感覚とは触覚・痛覚・冷覚・熱覚・運動感覚・筋肉感覚などのことで、特殊感覚(視覚・聴覚・味覚・臭覚・平衡感覚)などを統御する働きを持っているのである。
子どもに遊びを伝えるときに言葉だけでなく、全身を使って教えることが必要との考えである。詩の朗読でも心を動かし、手と足を動かし、伝えようとすれば子どもに伝わるものである。
折り紙の折り方を教えるときでも「まず半分に折って、しっかりしっかり強くアイロンをかける」「つぎにその紙を開いて気合いで『キャー』といって倒す。」「また紙を開いて半分にしっかりしっかりしっかり折り、その紙を開いて頭に載せて体育遊戯室を一周する」といったやり方をすれば、異年齢異世代を一緒に紙飛行機作りをすることができる。同時に折紙遊びは体育遊び・表現遊びにもなるのである。
子どもはある程度仲良くなってくるとおおふざけをするものである。また小学生低学年時代の子どもは「棒があったら振り回し、石があったら投げ、カーテンにすがり、穴があったら掘る」という本能を発揮する時期である。遊びの中で危険な行為があったらきちんと叱ることが必要である。ただし本能でやっているので考えてやっているわけではない。「何で石などをなげるの。危ないでしょ。やっていいことか悪いことか考えてみなさい」などという注意は意味があまりない。なぜならば考えて行動しているわけではないからである。危険な行為した手や足を強く握り締めたりして叱り『でもあなたは良い子』といってやると子どもは次第にやって悪いことを理解してくる。なお女の子どもは悪いことをして叱られる男の子どもを見て学習するから男の子をきちんと叱っておけば女の子はそんなに叱る必要性は少なくなる。
小学生は事理弁識能力があり、自分の生命は自分で守ることが基本とされている。遊びの中で自己責任の原則をしっかり守って遊ばせることが必要である。(乳幼児は保護者の管理責任である)とはいっても子どものことである。その意味で自己責任の原則で遊ぶことと子どもをしっかり叱ることはリンクされる必要があると私は考えている。
理解するは英語でunderstandである。文字通り下側に立つである。子どもは存在自体がunderstandだから子どもの目線のさらにその下側に立つことに子どもの理解を深めることが必要である。また子どもに見透かされることがなくなる。
ケースワークの必要な子どもを大人がついてやろうとすることが多いが、基本は子どもは子ども同士の切磋琢磨で成長するものである。ケースワークの必要な子どもも遊びの仲間に入れることの出来る排他的でない遊び集団を作ることが必要である。また子どもをunderstandするということは遊び集団の中で子どもがどのような存在であるかを見ることでもあるので、ワーカーは個々の子どもの遊び相手をするのではなくて、5人〜10人くらいの遊び集団が5グループから10グループうまく遊んでいるかをサポートすることが必要である。こうすれば少ない職員で多数の子どもたちの切磋琢磨を見ることも出来る。
人間は自然の一部である。アグレッシブな子ども・自閉症の子ども・仲良く遊べない子どもも自分の採ってきたモチグサのテンプラを食べたり、自分の採ってきたハコベの菜めしを食べたりすると元気が出てくる。海に行ってザブーン・ザブーンの波につかっていると落ち着きが出てくる。秋に拾ってきたドングリのコマを作ればベーブレードよりも面白い。センターで泊ろうでの松林への肝試しは何があるわけではないが人気が一番である。
身近な自然とのふれあいをまず大人が心がけることである。その意味からも子どもの遊び場環境作り(草取り・木の剪定・ごみ拾い・遊具や建物修繕・きれいな環境作り)こそが児童厚生員の一番の仕事だと私は考えている。子どもの遊び場環境作りは同時にユニバーサルデザイン的な考えであり、子どもの遊び場環境作りは同時に地域作りである。