2011年3月11日の大震災は、すさまじいものでした。平島公園で一緒に活動していた仲間が、東松島市野蒜に4年前に新築して移転していったのですが、3週間も連絡がとれず、宮城県警の行方不明者名簿にも載っていたので、とても心配していました。4月1日に連絡がとれました。その後になかなか電話が通じなかったのですが、4月5日に連絡がとれました。平島公園クラブ・平島一丁目自治会・平島一丁目自主防災会で炊き出しボランティアに、4月10日に出かけてきました。 |
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「何が欲しい?」と聞いたら、「トン汁飽きた。カレーが食べたい」「使い捨てでない箸とスプーンと陶器の皿が欲しい。ズボンが欲しい」とのことでした。
ニンジン8㎏・ジャガイモ10㎏・タマネギ20㎏・豚肉5kg・トマト5㎏・酒2合・リンゴジュース1ℓ・野菜ジュース1ℓ・すりおろしニンニク1瓶をカレーの材料としてもって行きました。これらは平島一丁目自治会費より支出しました。
平島一丁目自主防災会から400杯作れる寸胴鍋とプロパンとバーナーを用意しました。
平島公園クラブより折り紙を用意しました。 |
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東松山市でカレーを作っている様子です。1時間半ほどで煮えてきました。野菜からの水やトマトの水がほとんどで水は焦げない程度に2ℓくらいしか入れていません。野菜の味がとてもカレーを美味しくしてくれます。私自慢のカレーです。
材料は新潟で町内の仲間が家族総出で切ってくれました。お母さんとお父さんと子どもが3人でタマネギ10kg・もう人家族が同じようにタマネギ10kg・ニンジンとジャガイモは自治会の役員のお母さんが切ってきれました。
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新潟を朝の5時に出発して、2時間で半分地点のあだたらに着きました。平島一丁目の石田さんと二人で行きました。 |
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10時頃に東松島市野蒜に着きました。写真は野蒜駅の踏み切り周辺です。線路も車も踏み切りもみんな津波にやられていました。写真の右の棒は踏み切りの棒です。
家は壊され、車は今も転がっていました。ただ松島市が松島に守られてやられなかったので、道路は通れるようになっていました。
津波の凄さを感じさせられました。
4週間経ってなお、線路は瓦礫の山の下です。
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上の写真は私の仲間の家です。新築だったので流されなかったのですが、周りの家はほとんど流されてしまったそうです。
流されなかったと言え、家の玄関は津波で破られ、家の中は写真のようにメチャメチャです。1~2年の単位の復興ではなくて、10年以上かかる復興計画となると思いました。
私も長いスパンを考えて応援したいと思っています。とりあえず、秋にもう一度炊き出しに出かける予定です。新潟県児童館連絡協議会や地域組織活動などと連携をとりながらと思っています。 |
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家は破壊されましたが、子ども達は元気です。私のやり方は相手のニーズに合わせて活動することです。ですから、食器が欲しい・カレーが食べたいとの仲間の携帯電話からの要望に合うようにしました。
それともう一点は、支援者と被支援者との関係が好きではありません。
子ども達にも味見やカレーのルーを出すことや、ゴミを集めること、野菜ジュースを鍋に入れた後、もう一回水を入れてくることなどなどたくさんの仕事をしてもらいました。今の子どもには働く機会が少なすぎます。働くことをどんどん入れてやれば、子ども達は自尊心をもつことができて、健全に育ちます。遊ばせ屋やたんなる支援者では仲間になれません。
写真は味見をしているところです。2時間ほど経って、1歳半くらいのしほちゃんとも仲良くなりました。 |
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もちろん大人の人も手伝ってもらいました。
最初、日曜日でみんな出かけているので、30人くらいでしょうとの話だったのですが、被災された場所の片づけをしていた人や他の避難所の人もやってきて、なんと130人位の人出となりました。ご飯は100人分しかなかったので、ご飯を少なめにして、カレーをたくさん食べてと話しましたら、みんながどんどんお代わりに来て400人分のカレーが300人分無くなりました。
残りの100人分は夕飯に食べられなかった人たちに残しておきました。 |
食べ始めた時は50人くらいでした。ずっと発泡スチロールの丼だったのが瀬戸物の丼になり、スプーンもステンレスのスプーンになって喜んで食べてくれました。もちろん箸もスプーンも食器も寄付してきました。長い避難生活になると使い捨てではゴミばかりが多くて困るとのことでした。
問題なのは、相手のニーズをしっかり把握することです。そのためには、自分の個人的な思いを捨てて、相手から素直に学ぶことだと思います。このとき支援者と被支援者の関係ではなくなり、「情けは人のためならず」との真の意味がわかってくると思います。
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被災地は2キロメートル位離れたところなのですが、自転車でカレーを食べに来た人も多数いました。避難場所は定林寺というお寺さんでした。ここの住職さんと副住職さん(住職さんの息子さん)とその家族の方々が素晴らしい方たちで避難者も含めてみんな仲間との意識がとても強く感じられました。私が抱っこしている乳児しほちゃんも副住職さんの4番目の娘さんでした。
苦しい時に助け合うという日本人の原点がここにはありました。 |
お寺の本堂の方を見た写真です。本堂の石の灯篭も地震で倒れていました。でも、津波はここまでは来なかったとのことです。
カレーライスを食べ終わった後に10人ほどの子どもと5人ほどの大人に紙風船と人工衛星の作り方を折り紙でやりました。余分に折り紙を持っていったので、ぜひ、暇なときに練習してと言ってきました。 |
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中越地震の時も私は炊き出しボランティアや遊びボランティアに行きました。そこで学んだことは、自家発電がとても有用だとのことでした。そこで平島一丁目自主防災会を立ち上げ、自家発電機、野外炊飯道具、備蓄用ガソリン携帯タンクなどを購入していました。今回の活動にとても役立ちました。平島公園クラブや有明児童センターのように児童館はこのような道具を用意して日々活動することが良いと思います。
もちろん今回もばっちり学んできました。食糧や材料等をおいて置くのに、テントとパレットが有用なことです。平島一丁目自治会でも早速購入することにします。 |
帰りは200キロを走り、磐梯山SA まで2時間半で戻ってきました。ここで携帯したガソリンを補給しました。この後1時間半走りました。
朝5時に出かけて、夕方5時半に新潟に到着しました。12時間半の活動でした。ばっちり疲れましたが、仲間の元気な顔を見れて最高の一日でした。
長期戦です。次回もみんなで応援に行こうと思っています。 |
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