遊びの手法    枠にはめない枠から出さない   ホームトップ  詳細トップ  (2005年10月8日) 

                                                   児童健全育成指導士 田中 純一

  はじめに
 私は子どもの遊び場である有明児童センターに勤務して25年になる。毎日平均150人以上の小学生を相手にしている。日々、市中見回りをして子どもたちを見守っている。同時に子どものそばまで行って、子どもの視線のさらに下になりunderstand(=下側に立つ=理解する)して子ども理解を深めている。また様々な遊びを大きくしたり、小さくしたり、速くしたり、遅くしたり、変容させることによって少子時代における子どもの遊びを子どもたちと一緒に作っている。基本は子どもから学ぶことである。
 この間、子どもの遊びの手法として「ツーパワー・スリーパワーで遊ぼう」「名前のいらない遊びを増やそう」「ロールプレーを増やそう」「ワン・ツー・スリーの原則」「遊び場環境作りをしよう」「遊びは教えるものではなくて伝えるもの・サポーターになろう」「集団ジャンケン遊びをしよう」「全ての遊びを運動遊びにしよう」などの提案をしてきた。
 「枠にははめないが枠から出さない」との提案は児童館・児童クラブの安全管理的な側面と子どもたちの自主的な遊びの実現のために一つの提案である。

    枠にははめないが枠から出さない
                          

   枠から出さない
 枠から出さないというのは文字通り一定の地域の中から勝手に出ることを許さないとのことである。事理弁識能力のある小学生以上の子どもたちは基本的に一定の場所にいることができると法的にみなされている。学校の敷地外に勝手に出ない。児童センターの遊び場の範囲から勝手に飛び出さない。児童クラブの敷地内から勝手に飛び出さない。この場合の敷地・校内というのは子どもたちを安全に管理できる範囲とのことである。職員等がその子どもを呼んだときに子どもが放送の聞こえる範囲の場所が枠ということになる。
 最近の少子時代の中で自己中心わがままな子どもや保護者が増加し、自由という名の下に「どこに行ってもかまわない」かのような主張がなされることもある。しかしながら活動は安全の範囲内でできるだけ許容されるべきであるが、枠から勝手に出ないことはしっかりと守られせるべきである。
 もちろん、枠とはTPOに応じて広がったり、縮まったり、違った場所になったり可変的なものである。集会室でみんなでジャンケン遊びをしている時は集会室の中だけとの枠になるし、広い公園に遊びに行った時なら公園の敷地内ということである。自然科学館へ行った時は自然科学館内との意味である。

  枠にはめない
 子どもは子ども同士の切磋琢磨で成長するものである。しかも子どもは子ども自らの意思で成長するものである。だから安全の範囲である一定の枠内から出ないければ後は枠にはめないで、できるだけ子どもの自主的な行動を保障するべきである。これをやりなさいあれをやりなさいとの「善意」の枠組みが子どもの成長を阻害していることはよくあるものである。

  枠にははめない枠から出さないとの提案の意味
 
提案のきっかけは障害児童の指導においてのことからである。A君は小学校3年生の子どもである。知的障害と全般的な発達障害があり障害児学級に通っている。学校では運動嫌いで、友達になりたいので他の小さな子どもにちょっかいを出したりみんなと同じ行動ができないでのたびたび担任より注意があるという。
 A君はいつも担任や大人に何回も注意を受けているので「先生何をしたらいいですか」「先生ボクはどうしたらいいですか」と聞きに来る。「好きなようにしたら良い」としか私は言わない。A君はある意味では支持待ちとなっている。そしてうまく行かなかった時は先生や大人のせいにすることを「学習」している。だから一定の枠内にいることを守れば、後は基本的に枠にはめないで自由にさせておくことを基本とした。(障害児指導の担当者でこのことができない人が多いように私は感じている。障害児であるからと、あれこれ手をかける結果、子どもは大人や先生の存在をうっとうしいと思ったり、依存したりする。)
 みんながおやつの時にA君はトランポリンをやろうとする。「トランポリンはダメ」と叱る。「何で?」と聞くから「ダメなものはダメ」と伝える。よくなぜダメかを説明する必要があるという人がいるが、それは無意味であって有害である。子どもの時間は内容が大人の3倍の密度がある。トランポリンがダメといわれれば違うものに興味がわいてくる。その興味が例えば積み木であって枠内のものであれば許容すればよい。ダメなものならだめとだけ言えばよい。なぜダメかなどという説明を子どもは聴いているわけではない。
 
  枠にははめないが枠から出さないとの指導の方向
 A君は運動嫌いということになっていた。私が「これからローラースケートをやります。やりたい人は屋上にあがりなさい」と放送をしたときのことです。A君が私のところにやってきて「僕はローラースケートをやってよいですか」尋ねてきた。「「どうぞ」と同時に私は6年生の女子に「この子を連れいていって」とお願いをした。4分後に私が屋上のローラースケート場にあがってみると、彼はインローラーのローラースケート靴を履いて滑り出す直前であった。
 枠にははめないけれど枠から出ることは許さない。これを徹底すれば子どもはその枠の範囲内で学びだすのである。その時にこそ子どもの自主性をほめてやれば良いのである。児童館・児童クラブの職員や障害児学級の教員がややもすると枠にはめてみたがたり、逆に実現不可能な枠外の活動を主張するのはたんなる自己弁護ではないかと私は思う。
 Bさんは小学校の4年生の女子である。学習障害があるので障害児学級に通っている。みんなとボール遊びなどができない。一人で遊んでいることが多い。午後5時までは自由に遊んでいるが、清掃の時間になると必ず室内に入れる。「掃除の時間だから戻っておいて」。掃除終了後も外に出たがるがダメなものはダメで出さない。その代わりに掃除終了後にみんなとボール遊び・手つなぎオニ・だるまさんが転んだ・折紙などの遊びをする時には無理にはさせない。ただし一緒に他の子どもが遊ぶ様子を一人遊びをしながら見させている。ゲームの時間が終わりみんなにキャンディーを配る時にBさんにキャンディー配りをしてもらう。こうした積み重ねの中でBさんもいつか一緒にゲームを自主的にやる時が来るであろう。その時を待つことがとても大切と私は思う。

  なぜ枠にはめたがるか?
 障害児童の指導の多くが枠にはめた指導をしていることが多いように私は思う。障害を持っているからよくわからないだろう。だから懇切丁寧に説明し、手を出してサポートしてあげたいと思う。じつはこの姿勢はいかにも障害児童に親切そうに見えるから保護者や指導員や教員がやってしまうものでないかと私は思っている。子どもが自主的にやろうとする意欲を待ち、ダメなものはダメとサポートすることはけっこう大変なことです。見栄えもしません。安易で見栄えのするやり方は「A君。さあローラースケートを頑張ってやろう。楽しいよ」といった声かけをして手取り足取り指導することなのです。これが枠にはめたがる理由でないかと私は思います。
 結果として上記のように依存的な子どもになります。また反抗的になって自分勝手に枠から飛び出したりします。するとそれを障害だからとADHD等と決め付けてしまいます。

  子どもの能力は素晴らしいものだ
 障害児童も含めてすべて子どもは自ら自主的に遊ぼうとする意欲に満ちているものです。枠にはめないで安全な枠の中で自由に活動させておけば、子どもは自主的に活動を始めるものです。これは生命の本能です。自主的意欲的な活動をしないということは生きていないことに等しいのです。ですから子ども及び人間の持つこの本能的能力を信じて遊び場環境を整えて待つことが大切なのです。ただ自主的意欲的な活動が必ずしも安全なものばかりではありません。危険な行為等は「ダメ」「何で?」「ダメなものはダメ」を繰り返すと子どもは素晴らしいものを自ら発見していくものなのです。このときに子どもをほめて同時に子どもからunderstandしていけば私たちは遊びの手法を発見できると思います。
「遊び学」風私論という遊邑舎のホームページで大人が子どもの遊びに関わる難しさについて記載されていた。遊びを指導しようと思わないでサポートするのが大切と私は思う。

  ノンバーバルコミュニケーション
 この言葉を教えてくださったのは私の職場でボランティアをして下さっている錦織美知先生です。子どもたちの指導において大切なのは言葉によるコミュニケーションではなくて非言語なものが大切との考えです。子どもの健全育成等の審議委員会などに出席すると子どものニーズや言葉に耳を傾けようとの主張がたくさん出てきます。一見正しそうですが、実は眉唾なのです。言葉にならないものを汲み取ることが大切と私は思います。