遊びの手法         多重知能理論      ホームトップ  詳細トップ   


 子どもの発達を素直にunderstandしていると、いくつかのことに気づいている自分に気づいた。子どもという存在はきわめて多面的な能力を持った存在なのである。大人のように自分の限界を自分なりに把握してしまっていないので、いろいろなことができると信じている。出来ないとは思っていない存在なのだ。ですから、子どもの持っているこの多面的な能力を上手く活用させることが大切であると私は感じるのである。
 乳幼児に「人間っていいな」(マンガ日本昔話のテーマソング)のダンスを教えようとする場合で考えてみよう。乳幼児は音楽を聞いて、手を振る子どもがいるでしょう。これは身体運動的知能に関わることです。「いいな。いいな。」と歌を歌う子どももいます。これは言語的知能と音楽的知能が関わります。お母さんや指導員がが乳幼児を抱っこしてゆすってやったり、手をつないでゆすったりやれば、そこにお母さんや指導員との対人的知能が培われます。体育遊戯室の中のマットのお山をのぼったり、下りたりしながら、多数の人と一緒に走り回れば空間的知能を養うことになります。
 ガードナーの多重知能理論でいえることは、音楽的知能・言語的知能・対人的知能・身体運動的知能・空間的知能はそれぞれ独立したモジュールですから、同時進行が可能となるのです。そしてあるモジュールをオートマチックにできるようになれば、他のモジュールのために脳を使うことが可能となります。例えばダンスを自由にオートマチックに踊ることが出来るようになれば、脳は歌詞を覚えることに専念することができます。歌いながら自由に踊ることができるようになれば、他の人が自分をどんな風に見ているかを感じ取ることもできるでしょうし、自分の心が今、どんな状況にあるかを感じることができるかもしれません。
 一つの作業なり、遊びなり、活動なりをするときに、ガードナーの多重知能理論の考えを上手く使えば、子ども達は楽しみながら遊んだり活動したりすることが可能となります。
 小学生に「おむすびころりん」の詩の朗読をする場合で考えてみよう。おむすびころりんをただ暗記をするだけならば、言語的知能の領域でしかない。そこで対人的知能と身体運動的知能が暇になってしまう。暇をもてあました身体は隣の子どもを当然のこととしてつっつくであろう。つっつかれた子どもは邪魔になるから、突っつき返したり、怒ったり、叩いたりしてケンカとなる。そこで先生が叱るとのパターンとなるのである。おむすびころりんの詩の朗読に身体を動かしながら朗読してみよう。山の畑を耕してのところは耕す真似をすればよいだろうし、包みをあけたそのとたんの時には包みを開けるしぐさをすればよい。こうすると言語的知能だけではなくて、身体運動的知能も動員されることになるので、隣の子どもを突っつくことは不可能となる。歌にリズムをつけると音楽的知能も必要となり、二人組のダンスにしてしまえば、対人的知能も要求されてくるのである。
 ここで大切なことは仮に言語的知能が劣っていても、身体運動的知能で身振りをすることは可能であるのだ。小学校低学年の男の子は一般的に言語的知能が女の子に比べ1年〜2年は遅れている。詩の朗読ではたどたどしく朗読することができなし。字も上手く読むことができない。結果的に上手く朗読できないので他の嫌になって他の子どもの邪魔をすることになる。そして叱られて劣等感を持ってしまったり、反抗的な態度が助長されることになる。小学校の低学年男子は言語的知能には女の子より劣るが身体運動的知能では優れている。そこで大きな身振りや手振りを入れてやり、自己中心的段階なので「すごく上手く畑を耕したね」などと褒めてやれば、自尊心が高まり、頑張ろうとするものである。その内に身振り手振りに関連して言葉が出て来て、言語的知能も伸びてくるのである。

 自己中心的な子どもと対人的知能・個人内知能について
 自己中心の子どもと大人が増加してきている。自己虫というくらいである。自己虫について考えてみたい。自己虫は対人的な知能が劣っていると考えられるであろう。自分のことしか考えないで、他人が何を考えているとか他人を思いやる気持ちが足りない。久しぶりに柏崎の網代せんべいをいただいた。職場のボランティアに食べてもらおうともっていった。夕方になって、15人くらい残っていた小学生にも食べさせようと皿に20ヶ位入れて出した。すると争いあってとり始め、4年生男子が1人で3ケ・4ケとった。結果的に食べられない子どもが出ることになった。食べられない子どもにはもう一回あげたが、3ケ・4ケとった子どもの自己虫ぶりにあきれてしまった。つまり自分だけがたくさん食べれれば良い。他人のことは関係ない。こういった考え方だ。この時に普通の子どもは自己虫的なことをしたら、他人がどのように思うか。そして対人関係が悪化するであろうことに思いがいく。しかしながら少子時代の中で、こうした対人関係が著しく減少して、皆が王子様王女様のようになり、暴君になってきているのではないかと私は感じている。
 こうした自己虫な子どもや大人にはロールプレーやディベートやごっこ遊びが有用である。つまり先生ごっこや買い物ごっこなどを通して、先生になったり、子どもになったりすることで相手の立場を考える力を養うことである。もちろん劇遊びなどで男が女になったり、殺人者になったりすることも必要なのかもしれない。児童館・児童クラブにおいてはこうしたごっこ遊びを活用することが必要であろう。私はジャンケン遊びで自分が負けると子どもに「○○様参りました」などと深々と頭を下げるごっこ遊びをしている。
 自己虫にならないためにはうそんこごっこも有用である。嘘を言い、嘘で答えるというものだ。「○○ちゃん。内の子どもになって」との問いにADHD傾向の子どもは「絶対に嫌だ」などと答える。何度かの訓練の後に「はいはい」と嘘の二つ返事ができるようになる。「はいはい」とは「私の親になりたいとのあなたの気持ちはわかりました。でもごめんなさい。子どもにはなれません」程度の意味である。全てを文字通りに言葉通りにとらえてしまうのは危険です。とくに今の詐欺が横行する社会では。言葉の裏にある本当の気持ちを理解できるような能力が必要です。そのためにはうそんこごっこなども必要となるでしょう。
 個人内知能については正直なところあまり良くわかりません。もちろん対人的知能とはモジュールが違うのですから、別物でしょう。あえて言えば、ユングの集団的無意識を理解する能力のように思います。つまり人間の中には意識化されたものが2とすれば、無意識が8くらいかもしれません。そしてその無意識の中には個人としての無意識が2くらいで種としての無意識が6くらいといった感じで捉えることができるのかもしれません。私がホームページを作って自分の考えを伝えたいと思うのは自分の意識的な部分での誰かに何かを伝えたいという部分があります。でも自分の中の無意識ではもっと違うものがあるでしょう。そしてその無意識の下にも人間・哺乳動物としての種としての集団的無意識が存在しているように思います。そうした種としての集団的無意識を感じることの出来る力が個人内知能ではないかとも思います。こうした集団的無意識を感じることが出来ると小説を書いても他の人に感動や共感を与えることができるのでしょう。
 
 多重知能理論について少し書いてみました。なお下記は花緑理論で記述したもののコピーです。

□花緑理論

 多重知能理論
 花緑理論の展開の中で放送大学院の発達心理学特論で多重知能理論に出会うことができた。知能は一つではなくて概ね7つのモジュールになっているという。論理ー数学的知能・言語的知能・身体ー運動的知能・音楽的知能・空間的知能・個人内的知能・対人的知能である。これらの知能は関連性を持ちながら相互の独立したモジュールであるという。運転をしながら、音楽を聴きながら、他の人と話ができるのはこうした知能がモジュールとして独立しているからだという。逆に一つのモジュールの中では同時に二つのことはやりにくいという。自動車の運転をしながらカーナビを捜査することが難しいことの所以でもあるらしい。
 多重知能理論を活用して対人的知能を核とする児童館運営
 多重知能理論から児童館・児童クラブの活動を対人的知能の発達を核として言語的知能・身体ー運動的知能・音楽的知能を同時に活性化することのできる活動を提供することが一番の基本ではないかと考えるようになった。今まで児童館・児童クラブの活動の目的がしぼれきれていないように感じていた。対人的知能を高めることを基本とするとの枠組みをしっかりと確認することが大切ではないかと考えるようになったのである。
多重知能と遊び
 児童館・児童クラブの活動は遊びを主としたものであると言われているが、遊びをどのように定義したらよいであろうか?
 広辞苑によれば
あそび【遊び】
1あそぶこと。なぐさみ。遊戯。源氏物語桐壺「御心につくべき御―をし」
2猟や音楽のなぐさみ。竹取物語「御―などもなかりけり」
3遊興。特に、酒色や賭博をいう。「―好き」「―人」
4あそびめ。うかれめ。遊女。源氏物語澪標「―どものつどひ参れるも」
5仕事や勉強の合い間。「―時間」
6(文学・芸術の理念として) 人生から遊離した美の世界を求めること。
7気持のゆとり、余裕。「名人の芸には―がある」
8〔機〕機械の部分と部分とが密着せず、その間にある程度動きうる余裕のあること。「ハンドルの―」
 上記の中で児童館・児童クラブの遊びは1・2・5・6・7と考えることができるであろうが、こればかりではないように思う。全く別の観点から考えてみることも必要であるのではないかと思うようになった。ここで多重知能理論を活用して遊びを「対人的知能を核として論理ー数学的知能・言語的知能・身体ー運動的知能・音楽的知能・空間的知能の一つまたは複数の知能を高めること」と考えることができるのではないかと仮説をしてみた。例えばサッカーは身体ー運動的知能を高める活動である。サッカー部やサッカークラブの活動はサッカー技術の向上を通して身体運動的知能を高めると共に他の知能も関連しながら高めていると考えることができる。児童館・児童クラブにおいてサッカーを取り上げるとすると子ども達の対人的知能を高めることを核として考えてサッカー技術の向上は手法となる。つまりサッカー技術向上のために人間関係が悪化するようなサッカーは児童館で必要がないことになる。正式のサッカーの試合のように11対11とかでなくても良いのである。例えば子ども11人対大人2人の試合もありうるのである。このことで大人はすごいなあとか。子どもも人数が多くなるとけっこうな能力を発揮するものだとかが分かり、対人的知能が高まればよいと考える。
 遊びを考えてみると代表的な鞠つき遊びなどにたどり着く。この場合に鞠つき遊びは言語的知能・身体ー運動的知能・音楽的知能・空間的知能などの多数の知能を同時に発達させようとするものが多い。そして同時に必ず対人的知能に関連している。遊びを「対人的知能を核として論理ー数学的知能・言語的知能・身体ー運動的知能・音楽的知能・空間的知能の一つまたは複数の知能を高めること」と仮説することはけっこう有意義ではなかろうか。
 最近接領域を探る
 子どもの活動を発展させるためにはヴィゴツキーの最近接領域の考えを活用することとなる。花緑理論を展開して多数の子どもが集まってくると子ども同士の切磋琢磨が生じてくるが、その中で多重知能理論を使って対人的知能の発展を核として複数の知能の発達につながる活動を展開することになる。この時に子どもの遊びをしっかりとunderstandしていると遊びの次の方向性が見えてくるようになる。ヴィゴツキーの最近接領域の考えによれば子ども達の発達は子ども達の抱えている今の能力のちょっと上の能力の展開をすることによって飛躍的に伸びるという。つまりあるがままの子どもではなくてこれから発展していこうとする子どもの方向性を考えながら、ちょっと難しい課題を提供していくことが必要であるという。遊びが子どもの自主性に依拠したものであったとしても職員はあるがままの状態に満足することなく、次の段階を提供することができるようにすることが必要である。
 対人的知能と社会福祉援助技術総論
 花緑理論の展開はたんに花を植えて緑を多くするだけではなくて、多くの展開となる。 児童館・児童クラブの活動(遊びや生活を含めて)を対人的知能を核として他の知能を複合的に取り上げて活動すると仮説を立てた時にどのようなことが考えられるであろうか。
 児童館・児童クラブの活動は社会援助技術の中のソーシャルワーク・グループワーク・ケースワークを実施することとも見ることができる。児童厚生員の研修会で個別援助活動・集団援助活動・地域福祉活動・児童福祉技術援助総論などの科目がある所以でもある。ところが一般的に個別援助活動は個別の問題行動のある子どもをどのように処遇するかとの観点から展開されていることが多い。この結果、専門機関におけるカウンセリングの延長線上の発想があるように思う。また児童クラブにおいては障害児加算制度があるが、せっかくこの制度があっても加算された職員が障害児童に付き添っているケースが多い。
 児童館・児童クラブの活動を対人的知能を高めることを核とすると考えると障害児童も実は子ども同士の切磋琢磨において成長するように働きかけるべきであるから、障害児加算とは障害児児童を見るための加算ではなくて障害児児童を抱えるクラブ等への加算職員と考えることが必要である。したがって児童館・児童クラブにおける個別援助活動は児童館・児童クラブにおける集団援助活動の中で実施するようにすることが一番大切であると考えることが必要である。このことは特別支援学級等における加配職員についても同様に考えるべきであると私は思っている。現実論からいえば、専門機関におけるケースワークではないにも関わらす、専門的知識の有しない加配職員がケースワークの真似事をするために、子どもの自立・自律を損ねて障害児童が2次的障害を起こしていることが多々ある。加配職員がいないほうが健全育成になったりすることもあるかのようだ。
 基本的な考えとして障害児加算は障害児を抱えるクラブ等のグループワーク実施のための加配であるととらえることが必要である。とくに対人的知能を高める児童館・児童クラブにおいてはその考えを取り入れることが必要であると私は思う。