作業とお手伝いを地域作りの基本に
平島児童遊園児童厚生員 田中 純一
一般的に児童館では遊びを通して健全育成をし、学校では学習を通して人格陶冶(=教育)をすることになっている。私は最近それに疑問をもち始めている。
昔、ほんのちょっと昔まで、日本でも子どもは貴重な労働力であった。50年ほど前、私の父は小学校の分校の教員をしていた。父は田植えや稲刈りの農繁期になると、学校に子どもを寄越さないで農作業をさせている保護者に学校に寄越すように話に行っていた。今では子どもが学校にきたくないという時代だが。半世紀前までは違っていたのだ。(義務教育の本来の意味は国家と親権をもつ保護者に子どもに教育を与える義務との意味で義務なのだ。)
ですから人類の歴史がかりに50万年だとすれば、1万分の1の50年の間に、日本の子どもは作業や労働をしなくなったのである。日本列島に日本人が移動してきたのは1万年前くらいらしい。そうすると9550年、日本の子どもは作業をしていて、たったこの50年間の間に、作業やお手伝いをしなくなったことになる。子どもが作業や労働力であった時代には、遊びや学びはとても大切であった。「よく遊び、よく学べ」の言葉の裏にはしっかりと貴重な労働をしていた子どもの存在がある。しかし作業やお手伝いがなくなると、朝から晩まで遊んだり学んだりしていることになる。これは不健全である。
家庭でも地域でも子どもに作業やお手伝いをさせなくなって時代には、児童館や学校や地域で子どもに作業やお手伝いをさせることが必要である。
遊びや学びはある意味では生産的なことではない。消費的な行為である。草取り・お手伝いを子ども達としないと日本の子どもの未来はないのではと危惧する。
昨日(平成22年12月11日)は自然科学館に行く日であった。いつもは朝学習をして清掃活動をするのだが、昨日は朝学習をやめて、松の葉集めをした。90リットルのゴミ袋に6ヶも集まった。
児童館や児童クラブでは1に作業・2に労働・3におやつ・4に遊び・5に学習ではないかと思う。このように活動すれば、子どもはアイデンティティをもち、生き生きと遊び始めるのである。
嘘とお思いの方はお試しあれ。
その2
児童館や児童クラブそして児童センターで作業を取り入れた場合に、作業の対価はどうなるかを考えてみたい。簡単に言ってみると、児童館・児童センター・児童クラブを運営するためには多額の税金が投与されている。その全額を労働対価で返せというのではないが、ほんの少しくらいは労働や作業で社会貢献をすべきではないかと私は思うのである。
草取りをして、花を植えて、酸素供給をする。芝生に水やりをする。地域をきれいにする。除草剤を撒かないでアトピーを防ぐ。木の剪定をして、犯罪を防ぎ、風通しをよくするなどなど地域作りのための作業はたくさんある。こうした活動を広めていくことは、多額の税金等を使っているのだから、ある意味では当然であろう。そして、このような社会貢献は実は、自分たちの地域や住んでいる場所の環境整備であり、自分のためになるのである。
年金にも多額の税金が使われているが、多くのお年寄りは自分が遊ぶことのみを中心にしているように思う。やはりお年寄りにも社会貢献をしてもらう必要があると私は思っている。公園の整備・道の街路樹の下の花植え・自分の家の前の道のゴミ拾いなどなど周りを見れば、いろいろな社会貢献がたくさんあるのです。こうした社会貢献をしないで、年金をもらい、老人施設のお風呂に入り、駐車料金をただにせよと怒鳴っている人たちもいます。このような人たちはバブルでの狭い経験からしか学んでいないのではないかと思ったりもします。
児童健全育成は作業かな?との意味は子どももお年寄りも社会貢献の場面を作ってあげないとアイデンティティが確立できなくなるのではないかとの提案です。朝から晩まで遊ぶのではなくて、8時間の内、2時間くらいは社会貢献・2時間は学習・後の4時間は遊びなどの自由時間にしたらとの提案です。そして社会貢献をきちんとできる子どもを作ることができれば、その力は自由時間の充実にもつながると思うのです。
作業できちんとA4サイズの紙を正方形に裁断できるようになれば、折り紙遊びも上手くなるという関係性にあると思います。ほんの50年前の子どもは作業をたくさんさせられていたから、遊びを提供することが必要だったでしょう。今の子どもは基本的な作業やお手伝いをしていません。ですから、作業やお手伝いをきちんと教えることが児童館や児童クラブや児童センターでも必要です。
こんな風に考えてやり始めていたら、最近の保育士や児童厚生員や教員はきちんとした作業が出来ない人が多いことに気がついてきました。草取り・木の剪定・お茶だし・トイレ清掃・館内外清掃などを見ても上手に出来る人が少なくなってきました。そこが問題かな。有明の子どものほうがちゃんとできるように思います。
と思ってみたりしています。
その3
日本人の良さは、どんな人でも草取り・ゴミ拾い・清掃などができることにあると私は考えています。階級性が厳しい文化の国々では、知識階級や上流階級や支配階級が、この種の活動をすることはありません。イギリスでもインドでも中国でも朝鮮でもインドでもスリランカでもごみ収集の仕事は上流階級の仕事ではありません。これは日本で武士が支配階級になったことと関連があると私は思っています。武士の先祖は文化人類学的にマタギの仲間であったようです。マタギは山で暮しますから、清掃も調理もお茶だしも自分ですることが必要となります。この文化が武士の文化に受け継がれて、武士はお茶を出すことを家長の大切な仕事にしました。武士のこうした文化は公家の下のものに何かをやらせる文化よりも私は良いと思います。だから日本の子ども達にもお茶だしや清掃や花植えなどの作業やお手伝いをする文化を伝えることが大切と思うのです。
もう一つはマタギは山に銭金(ぜにかね)を持っていくことはできません。里に残る女性がお金を管理することになります。この結果、日本ではお金の管理を女性がする文化が生まれたようです。この文化も私は良い文化と思います。日本の女性は実は世界中の中で一番権力を持っているおかみさんであるように思います。そのおかみさんがトイレ掃除をせっせとやるのですから、我々もやらなければならないのかもしれません。
その4
最近の子ども達を見ていると、お手伝いや作業の経験が少なすぎる。働き・遊び・学びはバランスが必要である。大人になれば8時間の勤労・1時間の遊び・1時間の学びが必要であろう。同様に子ども達にも1時間位のお手伝い・2時間の遊び・5時間の学びが必要であろう。
児童館や児童クラブは遊びを通しての健全育成をうたっているが、それは昭和20年代から40年代までは子どもたちも労働力としてよく働いていたからである。底辺にこうした労働があったので「よく学び、よく遊び」とのスローガンは有効であった。しかしながら、平成の時代になって、子ども達はお手伝いや勤労の経験があまりにも少ない。こうした時代には勤労やお手伝いの経験をさせることが児童館や児童クラブに必要なことではないかと私は思う。
学びは学校・遊びが児童館児童クラブ・お手伝いは家庭との主張がある。しかしながら、家庭に居る時間が極端に少なくなっている今の時代は、家庭で勤労の経験をさせることは難しい。親もたまにの日曜日くらいはゆっくり遊びたいと思ってしまう。したがって、今、勤労経験を子ども達にさせることができるのは、児童クラブ児童館と私は考える。
実験的に私の職場で「遊びを通しての健全育成から勤労経験を通しての健全育成」との方針転換をしたら、子ども達の自尊心が高まり、逆に豊かに遊べるようにもなってきた。遊びと労働は似ているものだからだ。しっかり作業や労働の出来る子どもは豊かに遊べる。しっかりした仕事ができない子どもは労働や作業やお手伝いも下手である。遊びを教えると自由度がありすぎて、しっかりと教えることができない。しかし労働は一定の手順があるので、それをしっかり守らせることができるので伝達や教えることが簡単である。
しっかりと基本を学ぶと、それの延長線上に創造力が出てくるのである。だから、遊びの指導よりもお手伝いの指導を大切にしたら良いと私は思うのである。
子どもの遊びが豊かになると、子どもは大人の思わぬ発見をするものである。その発見を見つけて、取り上げて、普遍化することも児童館児童クラブ職員の仕事である。ですから、お手伝いを通しての健全育成をする職員の方が、遊びを指導する職員よりもはるかに遊びの巾が広がるのである。
お手伝いを指導する職員が遊びの巾が広くなるのは、遊びを指導する職員は「自分の遊び」に固執していて、お手伝いを指導する職員は「多くの子ども達の遊び」に依拠しているからである。一人の大人の遊びの量と多数の子どもの遊びの質と量は多数の子どもがはるかに勝っているのである。これが子どもは遊びの天才という所以であると私は思っている。そして子どもが遊びの天才である所以はもう一つその底辺に多くのお手伝いや勤労の経験があることにあると私はおもう。大人と違って子どもは奴隷労働が出来ないポジティブな存在であるのがその根拠ではないかと私は思っている。
大人が、子ども心をもち続けるということは、物事をポジティブに考え、いつも工夫をして楽しく働こうとすることではないかとも思う。