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学ぶとは(2012年1月1日)

児童健全育成指導士 田中 純一

 

ガードナーの多重知能理論

 

 ガードナーの多重知能理論の考え方があります。人間の知能は一つではなくて、概ね八つの知能が独立していると考えられるというのです。

 言語的知能・論理数学的知能・身体運動的知能・空間的知能・対人的知能・個人内知能・音楽的知能・博物的知能の八つです。これらの知能は独立しているので、自動車の運転をしながら(=身体運動的知能)音楽を聴き(=音楽的知能)・危険がないかを見極めながら(=空間把握的知能)、助手席の人とおしゃべりをする(=対人的知能&言語的知能)ことは可能となります。
 でも、運転をしながら、メールを打つのは身体運動的知能なので一般的に両立しません。同様に4+2をやりながら、8×7はいくつかを考えるのは難しいことです。

 ガードナーの多重知能論から考えると、人間の知能は多重なので、学び方も一様ではないことになります。耳から聴いて学習する人・目から見て学習する人・字に書いてみて覚える人・実際に肌で触って理解する人などいろいろであるとともに、その組み合わせがあるのでとても多種多様となります。つまり学習方法はいろいろあることになります。このいろいろな学習方法を上手く利用することが大切と思います。

 多重知能理論を考えながら、自動二輪の実技を学んでいて、理解したことがもう一つあります。身体運動的知能の学習をしているときは、そのことに脳が専念するので、なかなか他のことを考えることができないということです。自動二輪で一本橋を練習しているときは、鼻歌を歌ったり、帰りにジャスコで買い物をしようとかを考えることが出来ないのです。脳は注意の瞬きといって、一つのことの専念する傾向が強いのです。

 そこで考えてみると、脳が身体運動的知能をマスターすることが学びだとすると、学びとは脳を使わなくても筋肉や身体がオートマチックにうごくようになることでもあるのではないでしょうか?

 脳を使わないでも何かが出来るようになることが学びだと私は思うのです。

 

 学び再考

 

学びとはを使わないでも、いろいろなことが出来るようにオートマチックに反応できる体制を作ることだと仮定します。すると学ぶことはガードナーの多重知能理論的に考えると、身体運動的知能・言語的知能・論理数学的知能・音楽的知能・博物的知能・対人的知能・個人内的知能・空間的知能のいずれかをオートマチックに反応することとなります。この時に、それぞれの知能別に反応させたら上手くいくか、それとも連動させたらよいかを考えることが必要となります。結論から言えば、連動させることです。感覚は連動しているからです。ある匂いと風景と行動パターンは人間の中で多くの共通連動をしているからのようですから。集団的無意識の概念からもこれから逃れることは不可能でしょう。

 この観点から、学ぶとは身体運動的知能・もしくは論理数学的知能・もしくは言語的知能あるいは対人的知能のどれかに特化して、集中させながら、本能的・集団的無意識的に関連しあったしまうようです。だと仮定して、意図的にそれを結びつけてやってしまえば楽ではないでしょうか。つまり、学ぶ過程において、言語・論理・身体運動・対人・個人内・空間把握・博物・音楽的要素を一挙もしくは複数提供することです。

 これは実は日本のわらべ歌にあるのではないかと私は思うのです。手まり歌などはその典型的なものです。

   あんたがたどこさ 肥後さ 
   肥後どこさ 熊本さ 
   熊本どこさ 船場(せんば)さ
   船場山には狸がおってさ 
   それを猟師が鉄砲で撃ってさ 
   煮てさ 焼いてさ 食ってさ 
   それを木の葉でちょいと隠(かぶ)せ

 などのわらべ歌には音楽的要素・言語的要素・対人的要素・身体運動的要素・空間的要素などが含まれています。わらべ歌のすばらしい日本の伝統を見直すことが大切と私は思います。

私はわらべ歌や詩の朗読でアクション・リズムをつけて子ども達と遊んでいます。みそラーメンじゃんけん遊びは前職のときの子ども達が創作したのですが、その典型です。

  ■みそラーメンジャンケン
    せっせせーのみそラーメン
    おてらのおしょさんが 
    かぼちゃのたねをまきました

    めがでて みがなって
    おてらのなかから
    ゆうれいさんがユーユー

    ゆうれいさんのあとから 
    どろぼうさんがかねだせかねだせ

    どろぼうさんのあとから 
    おまわりさんがバッキュンバッキュン

    おまわりさんのあとから 
    コックさんがジュージュー

    コックさんのあとから 
    おすもうさんがドスコイドスコイ

    おすもうさんのあとから 
    ももたろさんももたろさん
    おこしにつけたきびだんご
    ひとつわたしにくださいな
 
 夏も近づく八十八夜の要領でやります。芽が出たり、実がなったり、幽霊の手の様子、泥棒の仕草、おまわりさんのピストルを撃つ姿、フライパンをジュージューする様子、四股を踏む様子、くださいなで最後の3回目のジャンケンで勝負をします。このときもあいこなら握手とか抱き合うとかすると友達の輪が広がります。

 身体を動かし、口を動かしながらやれば、けんかをすることができません。けんかは口が出るか手足が出ることから始まるのです。口と手足を暇にさせないことがコツです。

 放送大学院の「才能と教育」からガードナーの多重知能理論を学びました。DVDを放送大学院の新潟学習センターで聴講していて気づいたことがあります。多くの受講生はノートで書き込みをしながら、DVDを聴講しているのですが、私は書きながら学習するのが好きでありません。どちらかと言えば耳で聞き流しながら、自分の経験と照らし合わせて(個人内知能と博物的知能かな?)まとめるのが好きです。すると手が手持ち無沙汰になってきます。自宅ではどんぐりブローチ作りをしながらやっているのですが、学習センターでは無理のようです。それで学習能率が学習センターではあがらないように思います。最近では、自宅にDVDを借りてきて、内職しながらやっています。そのほうが私には能率が上がるのです。

 

気づいたことがあります。学習センターで借りることのできる教材は1回分です。そこで、行ったついでにDVDを視聴して、次のものを借りてくるのが能率的です。でも手持ち無沙汰になります。そこでDVDの視聴のスピードを1.4倍にしました。するとは視聴に集中せざるを得なくなります。手持ち無沙汰は解消されました。つまり、スピードが私にはマッチしていなかったのです。これを同じことは子どもの中にもよくあるものです。詩の朗読などもゆっくりモード・普通モード・倍速モード・4倍速モードなどを入れてあげると飽きないで出来るものです。またDVDのスピードの概念から言えば、普通モードと倍速モードの間に1.4倍モードがあることになります。1.4倍モードを速足モードとでもしましょうか。ゆっくりであればよいと言うものではないということと、ゆっくりがよい人とがいるでしょう。その意味では私もアスペルガーであると思います。というのはゆっくりモードの会議でいつもイライラするのです。このイライラの原因がゆっくりスピードに我慢ができないとの自分の異常性にあると今日気づきました。 会議のときに会議録を作成しながらだと、イライラすることがなかったことに気づきました。にはある程度の負荷が必要なのでしょう。負荷がかかりすぎても困るけれど、負荷が軽すぎてもよくないようです。
 このように仮定すると、何かの活動をするときに、いつもちょっとに負荷がかかるようにしておいたほうがを活性化させることに気づきます。
 負荷をかけるためには、スピードを速くするとか、言語的な活動をしながら身体運動的な活動も入れるとか、対人的な関係性も重視するとか、空間把握的な活動も入れるとか、音楽を聴きながら仕事をするとかなど、適度な負荷がかかるように脳の状態をしておくことが有意義であると考えられます。
 そのような手法を学びにおいてどんどんと見つけていくことが大切ではないかと感じ始められました。
 バイクを運転しているときのほうが、自家用車を運転しているときよりもはるかに安全確認や身体バランスをとるための活動量が多くなります。しかしながら、自家用車を運転した後の疲れは心地よくない疲れで、バイクの運転の後は心地よい疲れとなります。これこそがにある程度の負荷を与えたほうが、人間にとって健全である所以になるのではないかと思っています。

 

多くの男の子は手と足とが暇になると悪いことをしてしまうものです。ですから、手足を有効に動かしながらの学習方法を開拓することが必要であるでしょう。すでにギャル達は茶摘歌など歌を歌いながら働く手法を見つけています。ギャル達には口を動かさないで黙々と働くのは適切な手法ではないでしょう。

 能率とは能と書くのですから、もっと脳が喜ぶ手法を開発することが大切と思います。

 

アクション折り紙 

 折り紙を折るときに、折り紙を教えるのではなくて、折り紙の折り方を教えるとの考えを私はしています。またガードナーの多重知能理論を使って、折り紙を折りながらアクションを入れています。

 折り紙を長□に折ります。折ったら、床に立てて、気合で倒しましょう。次にまた開いて、反対方向に長□に折り、十字にして、遊戯室を一周しましょう。次に反対を出して△折りをしましょう。床に立てて踏まないようにジャンプを100回しましょう。また開いて反対方向に△折りをして上手くつぶせば風船の基本折りとなります。それを上に投げて空中で折り紙を傷めないようにキャッチします。

 とまあこんな風にやっています。途中でお迎えがきても、「今日は△折りまでしっかりできたね」と言ってやれば子どもは満足するのです。それを「今日は風船を作ります」とやってしまうと、風船ができないと帰れないことになったり、それまでの苦労は水の泡と考えてしまうのです。
 この手法がよいのは、身体を思い切って動かすことが入っていること、気合いで倒すなどことばも入っていることです。また、途中で仲間に折り方を伝え合うなどの手法を入れれば対人的知能も発達します。

 アクション折り紙とは今年の黒埼あそぼう祭のときの黒埼北部公民館の盛川さんが名付け親となってくれました。今後この種の手法をもっともっと開発したいと考えています。

 

 

 学ぶとユニバーサルデザイン的な活動

新潟大学を中途退学して、働こうと考えて、退学届けを担当教授に持っていったら、「休学にしておけ」と助けていただきました。その教授には今でも感謝しています。休学にしたあとは中国物産屋・運送屋などの仕事をしていました。

 20歳で運送屋にいたときです。私は普通免許を持っていて、中学校を卒業してまだ免許のない男の子と一緒に組んで燕から加茂まで仕事に行きました。運行管理者に出かける前に
「国道の警察がいて安全な場所は田中が、狭くて危険な場所は川上が運転しろ」といつも言われていました。私は運転免許があるのですが、運転が下手。川上君は運転免許がないのですが、運転が超上手かったのです。

 運転も含めて一つの活動は多くの要素を含んでいます。逆転の発想から考えてみると、全ての活動は乳幼児から大人まで関われる要素があるともいえる。つまり、全ての活動を意図的にユニバーサルデザイン的に作り直すことが、学びに役立つのではないかと思うのです。

 ダンスの場合で考えてみると、歌と踊りとリズムが一緒になってダンスになるにしても、乳幼児は手をたたいたり、鈴を鳴らしたり、身体をゆすったりする。保育園児は歌を歌ったり、ある程度踊る。小学生は難しいリズムやダンスにも挑む。という風に一つのダンスとの活動をいろいろな方面からやってみて、誰でもがユニバーサル的に遊ぶようにすることがよいと思うのです。
 カプラであれば、寝るを10段なら幼児でもできます。20段は小学1年生・30段は2年生・40段50段になると高学年や中学生高校生大人でもけっこう難しく、60段以上は天才的な難しさとなります。
 どうぶつしょうぎ・バックギャモン・オニムなどのゲーム遊びも同様に誰にでもできるけれど奥が深いゲームです。

 このようなユニバーサルデザイン的な遊びを開発していくことがとても大切と思います。そうすればずいぶんと学びは楽なものになると思うのです。

 

 

ユニバーサルを推し進めると

 ユニバーサルを推し進めると、基本的に活動が異年齢・異世代への活動と飛躍する。この飛躍は異質のものを一緒にするために当然のことトラブルを生むことになる。これはある意味では必然のことである。小学校1年生だけを相手にしているならば、体力・知力・ある程度の行動パターンが一緒になるので、コントロールが指導者にとっても子ども達にとっても楽である。そこで近代の学校教育は年齢別が原則となった。
 乳幼児と小学生と中学生が一緒になると体力が違う。乳幼児にはハードすぎても中学生には足りない。知力でも小学校低学年にちょうどよくても、乳幼児には難しく、小学校高学年以上には簡単すぎる。活動する広さも時間も同様に考えることができる。乳幼児から小学生や中高校生を一緒に活動させることはトラブルを生じる危険性が極端に大きくなるのである。

 ところが逆に考えてみると、異年齢・異世代がごちゃ混ぜに生きてきたのがホモサピエンス(今の人類)の16万年くらいの歴史である。そして孤立した状態(1人に一部屋みたいな状況)はここ数十年のことでしかない。人類にとって、異年齢・異世代が一緒にごちゃ混ぜ状況がある意味では自然なのである。そしてまたその状況に適応していかなければならない。

 この適応を妨げているのが、「効率化」を目指した現在の教育かもしれない。子どものためといいながら、子どもを孤立化させているともいえるのではないだろうか。そこであえて、ユニバーサルデザインの考え方を取り入れ、異質なものを一緒に扱うことが子ども達の成長に役立つのではないかと考える。

 生じるトラブルを考慮に入れて、高学年にはときに厳しい叱責を。低学年にはやさしい思いやり等の配慮が必要となる。この厳しい叱責が伴わないと異年齢を一緒にすることはなかなかできないのである。ところが、「やさしさ」を売りにする「教育者」のために、厳しい叱責は嫌われてしまう。結果的に異年齢・異世代交流は妨げられ、孤独の子育てになってしまっている。

 学びをユニバーサルデザイン化することは厳しさを考慮に入れなければならない。ここが難しい点であるが、必要なことであると私は考えている。

 
  

 学びのユニバーサル化することは異年齢・異世代交流につながる。異年齢・異世代交流は対人的知能を高める。同時に年長者にとって個人内知能を高めることになる。個人内知能とはある意味で自己の内省化を図ることである。自分よりも年下の人と付き合うことは、自分のちょっと前の過去を見つめることになる。それが自分自身を見つめなおすチャンスとなる。

 親近感という言葉があるが、この語源を考えてみると、親ではないが、親よりも自分の年に近い存在みたいな感覚であろう。人間の発達には親や兄弟や同年齢の仲間だけではなくて、ちょっと年齢の違う仲間が必要であり、それが個人内知能を育むように思う。しかしながら今どきの子どもには、親と競争相手である同年齢の仲間しか存在しないかのような錯覚に陥っている。この結果、自分自身の内省化を図ることが難しくなってきている。

 活動のユニバーサル化→異年齢・異世代交流を推し進めることは、対人的知能及び個人内知能を深めることにつながる点からも必要なことであると思う。


再び学ぶ


 再び学ぶとはを考えてみたい。
 脳を使わないでも機能するようになることが学びと仮定する。ではどのような形で脳を使わないでも行動が機能するのか?

 8+7の場合で考えみよう。小学校1年生に繰り上がりのある足し算を教える場合に、8は2をもらうと10になる。8は10になりたいといつも思っている。そこでお隣の7から2をもらってくる。7はよい子で2をあげて5になる。10になった8と5になった7が一緒になって15になる。というような十進法の基本を学ぶことになる。これを何回かやっていると、脳の中にいちいち8が2をもらいみたいなことが省略されて8+7=15とのバイパスが出来上がる。このことで考えなくても8+7=15となる。指を折ることも必要がなくなる。つまり学ぶとは脳の中にバイパスを作ることであろう。

 言語的な問題も一緒と考えることができる。自動車が走っている。それを見て、子どもが「ブーブー」と言う。お母さんが「自動車が走っているね」と何百回何千回も繰り返すと子どもは「自動車」といいです。またお母さんが「そうだね自動車が走っているね」と繰り返す。子どもは「自動車」との言葉が定着する。このときにたんに脳の中で言語が習得されるだけではない。舌、口唇、軟口蓋(なんこうがい)などの言語器官も筋肉運動のパターンを自動的なものにしていく。

 このように学ぶとは脳及び諸器官がオートマチックにできるようになることであろうと考えられる。脳においてはバイパスができ、諸器官においてはオートマチックな運動反応ができるようになることではあるまいか?

 パソコンを打っているときに、私は何を書こうかを考えている。しかしながら、パソコンのどの部分を打とうかとはまったく考えていない。例えば「考える」は「kanngaeru」の部分を打つことになるが、考えてkを打ってはいない。考えなくても自分の考えが、無意識で指に伝わっていく。しかももっと詳しく言えばkは右手中指・aは左小指・nは左右人指し指連打・gは左人差し指とそれぞれ違った指が打つことになるが、それは意識の中にはない。どの指で打っているかを確認するのにキーボードと指の確認をしなければならないものである。

 私は左右認識の障害がある。教員をしていたために、右手といえば左手があがり、左といえば右に行こうとする。右折左折は分かるが、同乗者に「右に行って」と言われると左に行ってしまう。脳が右左を逆転して反応するようになっているからである。だから運転をしていて怖いことが多い。でもそうした障害が自分にあると自覚しているとずいぶんと楽になる。
 脳の学習はオートマチックであり、一回学習すると考えなくてもできるようになる。でも左右逆転障害みたいなこともあるのも事実である。

 以上のように「学ぶ」とは人間の行動がオートマチックに出来るように訓練をすることで、ある程度脳に負荷をかけてやることが必要である。ある活動の学びが終了すれば、脳はこのことに注意を払わなくても別の活動を自由にやることが出来るようになる。つまり「学び」は人間の自由度を広げることになるとも考えることが出来るであろう。