児童館・児童クラブの仕事は社会福祉援助総論にあるようにソーシャルケースワーク・ソーシャルグループワーク・コミュニティーワークをうまく駆使することにあると思います。ここまでは研修会や理論で学ぶことができるのですが、現場でどのように活用したら良いかにはついてはまだまだ不十分な状態です。私としてはそこらへのところを現場として充実させていきたいと思っています。
ケースワークについて
1、知的障害児童の受け入れについて
児童館・児童クラブは遊びを通して児童の健全育成を図る児童のための施設である。学校と違い学習指導要領に基づき一定の学習成果をどうしても獲得する必要のある施設ではない。むしろ学校での授業の疲れを癒す機能を持ちたいものだと私は考えている。児童館・児童クラブが遊びを通しての健全育成であるならば、言葉による意思疎通・排泄の習慣・一定の枠から飛び出さないということのできる知的障害児童は児童館・児童クラブにとって障害にはならないのではと私は考えている。
小学校1年生のSちゃんは近くの小学校にいたが,知的障害があるので、2年生より、障害児学級に通うために校区を変更し、児童クラブの仲間になった。小学校で基礎的な学習=きちんとした読み書き・20までの足し算・引き算をするためには障害児学級に通うことは適切である。しかしながらSちゃんは児童クラブにおいては優しい子どもで館外活動に出かけても飛び出すこともない。連れて歩いたり、一緒に行動するのに全く問題がない。Sちゃんは学習障害児童であっても遊び障害児童ではないのである。
知的障害児童を遊び障害児童としてしまうのにはわけがあると私は思っている。児童館・児童クラブの職員が指導者として遊びの指導を通して子どもをオブジェとして扱って職員自身の素晴らしさをアピールすることにあるのではないかと思うのである。自分の指導する子どもが素晴らしい演技や歌や絵を描くと保護者や上司はすぐに指導者の資質を賞賛するのである。賞賛されたいために指導者はますます指導力に力を入れる。しかしそのときに実は子どもはたんなるオブジェになっているのである。
保護者や上司に認められるためには、かっこよく朝鮮民主主義人民共和国のように左足も右足もそろうように努力が必要なのである。指導はエスカレートし、子どものための活動が職員のための活動へと変化していくのである。
有明児童センターの子どもは失敗などおそれない。そのように私はいつもいつも言ったいる。右手と左手が別々なのに私はこだわらない。右回りと左回りが逆でもいいと思っていいる。ダンスなどの子どもの表現遊びは子ども自身の表現遊びであるべきで、基本的には子ども自身が楽しいことが大切なのである。上記の写真は男の子がみんなで踊っているところである。問題なのは楽しんで踊ることが大切なので、うまいか下手かは主たる問題ではない。この踊りも2週間くらいの間に5回ほど練習した。楽しいからみんな練習自体を楽しんでやった。ところが祭の当日に参加した40人くらいの子どもの内、十人が一度も練習したことのない子どもが参加した。お盆などの休みで練習に参加できなかったり、練習時間にいなかった子どもがいたのである。比較的にうまい子どもを前に出し、初めての子どもは後ろにいてその真似をして踊った。真似をして踊るのだからワンテンポずれる。左回りと右回り、左手と右手が反対になることも多い。子どもの表現遊びは盆踊りと一緒である。参加することに意義があるのである。だからそれでいいのです。上司や保護者は子どもの表現遊びをきちんと整然としたものを素晴らしいと思う価値観をそろそろ改めなくてはいけない。整然としたものがよいならばキムジョンイルさんの指導を仰げばよい。
指導へのこだわりそして賞賛されたいためのますますの指導への片寄りは一定のレディネス(準備性)を持つ子どもを望むことになる。右と左がしっかりと理解でき、前と後ろが分かり、指導者の指示(=私事)にある程度従える「事理弁識能力」のある子どもが必要となるのである。学校でさえ学習のためのレディネスを必要としているだけなのに、遊びのレディネスもが必要というのである。そのような「遊びのレディネス」が問題なのだ。
遊びというのは本質的に人と人とのコミュニケーションを培うためにあると私は考えている。ダンスを通してコミュニケーションできれば良いのである。知的障害のある子どもそれ以外の子どももやりたければやれば良いし、やりたくなければやらなければ良い。そのかわりにいつでも誰でも下手でも参加できるような雰囲気作りをしておくことが必要である。異年齢・異世代が一緒に、そのときだけでも参加できるし何度踊っても楽しいようなものをセッテングしておくことが必要である。このときダンスの主体が職員から子どもへと移るのである。そして知的障害児で遊び障害児でない子どもは受け入れが可能となる。
2、アグレッシブな(粗暴な)子どもの受け入れについて
よく粗暴な子どもといわれるが、粗暴というと矯正の対象となってしまう。私は粗暴な子どもではなくてアグレッシブな子どもというようにしている。男の子の中の何人かは「棒があれば振り回し、石があれば投げ、ボールが近くによってくれば蹴り、穴があれば掘る」といった子どもがいるものです。多分人間が狩猟をするための本能的なものだと思います。つい最近の昔まではそれでよかったのですが、自然環境が少なくなり、人工物だらけの最近ではこうした行動は粗暴とみなされてしまいます。そして「なんで棒を振り回すの。危ないでしょう。いったい何を考えているの?」などの叱責を受けることになります。「何を考えているの?」といわれても困るのです。男の子の多くは何も考えていないのですから。また「あなたはこの前もそうだったでしょう。今度やったら許さないからね。しっかり反省しなさい。」などと言われても「さっきのことは忘れた。次のことは分からない。今のことはさだかでない。」子どもたちには効き目がないどころか逆効果になることが多いものです。ケースワークの諸原則を応用しながらアグレッシブな子どもへの対応を考えてみたいと思います。
@個別化
対象者の問題、個別化を認識・理解すること。決して例のケース(この意味は”あ・また盗みのケースか!”ということ)ではなく、対象者の一人ひとりの特性を認め、個別的な援助をなすこと(児童館講座2 P49より)
個別化が大切となると児童館・児童クラブの現場ではそれまでの保育園での様子や家庭環境等をきちんと把握し、子ども理解を図ろうと努力してしまう。私はこれが個別化の妨げになっていると考えるのである。粗暴・IQが低い・母子家庭・未熟児出産・友達がいない等の子どものそれまでの環境を把握することが実はそれぞれの言葉のイメージ(粗暴・IQが低い・母子家庭・未熟児出産・友達がいないなどの言葉のイメージ)に囚われてしまうからである。児童館・児童クラブの現場では緊急的に把握する必要のあること(喘息発作等による薬や器具の服用装着・盗癖などの留意を要すること・排泄等のこと)以外のことはできるだけ、知らないほうが良いことのほうが多いのである。調査をすればするほど逆に例のことになってしまうからである。個別化の原則は第1にあるがままの子どもをそのままに職員が感じ取ることであると私は思う。児童クラブなどでも児童台帳を整備し、保護者の勤務先・家庭環境・塾等の習い事・通院医療機関・保険事業所名・既往症・配慮の必要なことなどを記入してもらい万が一に備えている。しかし私は基本的には児童台帳を必要以外に見ないことにしている。
アグレッシブな子どもの受け入れも同様で注意欠陥症候群のためのリタリンなどの服用を除けば、ありのままの子どもをそのままに受け入れるように考えている。とりあえず会ってみることである。会った感じで私達がなんとかできると思えば受け入れるし、無理ならば適切な機関を紹介することになる。
あるがままの子どもを受け入れるためにはいくつかの児童館・児童クラブにおける原則が必要と思われる。一つは名前がなくても遊べる遊びを増やすことである。よくレクレーションの研修会などでは名前を覚えることが最初に大事だと思われがちである。しかし乳幼児を相手にしていて気づいたのであるが、乳幼児にとって名前など必要ないのである。名前を呼ばなくても遊べる環境を用意することが、児童館・児童クラブの活動において必要であると思う。だるまさんが転んだで遊ぶとすれば、赤い服を着た子という表現で良いのである。
第2に寄せてにノーはないという原則の徹底化である。アグレッシブな子どもはとくに遊びへの欲求が強い。遊びへの欲求が強いからこそトラブルも多く、みんなに嫌われる。嫌われることが多いから粗暴となる。最初の一歩で「寄せて」「いやだ」でトラブルことになる。児童館・児童クラブの遊び集団は排他性を排除しツーパワー・スリーパワー等の手法を使い常に仲間作りが容易にできるようにしておくことが必要である。また遊び集団もマンガ読み・ゲームボーイ・カードゲーム・テレビゲーム・映画・バックギャモン・オニム・オセロ・将棋・トランプ・ジグソーパズル・積み木・ドミノ・ピタゴラス・サッカー・野球・ドッジボール・縄跳び・一輪車・竹馬・卓球・缶けり・ままごと・かけっこ・リレー・水遊びなど多様であることが大切である。アグレッシブな子どもはアグレッシブであるゆえにこれらの遊びの中から何かを選択する。その選択自体が子ども理解の第一歩である。同時に排他的でない遊び集団の中でどのような行動パターンをとるかを見ることは子どもの生活環境を調査する以上の発見があるのである。もちろんこの過程でアグレッシブな子どもは他のアグレッシブな子どもとまずトラブルを起こすことが多い。チョキンサの原則を使って、遊びをちょっとストップし、きちんとアドバイスをしてさっと再開することで遊びを持続させることが大切である。
アグレッシブな子どもでも一人遊びが好きな子どももいないわけではない。登り綱遊び・砂遊び・ローラースケート・ボールの壁あて・ブロック遊び・工作など子ども自身の選択による遊びを充実しておくことも必要である。
児童館・児童クラブにおける個別化とは言語的コミュニケーションを通して個別化を図ることよりも、遊びコミュニケーションを通して個別化をし、子ども理解をすることが必要であると思う。
A意図的な感情表現
対象者が自分自身の感情を、とくに憎しみとか敵意などの否定的感情を何ら批判を加えないで、自由に表現させること。
小学生期の子どもというのは汚い言葉や嫌なことを言いたがる時期の子どものようです。言って良いときと悪いときをしっかり自覚させるならば、ある程度どんどん言わせたほうが良いように私は考えています。時にはこちらからかまうこともあります。
「うっちゃん。ちょーかわいい。うちの子になって」
「お前の子になんかなるもんか。馬鹿。アホ」
「馬鹿・アホと言った。私のことが好きなのね。まあ嬉しい。」
「好きでないよ。だから馬鹿・アホといったんだよ。」
「でも本当に嫌いなら黙っているはず。やはり好きなんだ。チョー嬉しい。お母さんに電話をして今日は私の家にお持ち帰りだわ」
児童館・児童クラブの職員は子どもに負けないタフネスが必要なのです。子ども同士のトラブルでもあまり悪いように言わないでやるのがうまくいきます。
「うっちゃんが私のことをキックしていじめる。意地悪を言う」との女の子の訴えにうっちゃんへの話。
「うっちゃん。ゆうちゃんのことを好きなんだって。」
「嫌いだよ」
「だって、キックしたり、意地悪いったんでしょ。気持ちわかるなあ。男の子は好きな女の子にちょっかい出したがるもんね。」
「違うよ嫌い。嫌い。大嫌い。」
「好き好大好き。というのはよく分かったから、キックしたりはやめてね。」
こんな声かけが遊びの中で必要とされるように思います。またアグレッシブな子どもが積み木やバックギャモンなどをしていて家庭内のことや学校でのことなどをけっこうシビアにすごいことを言うこともあります。そんなときは「ハイハイ」が一番です。「ハイハイ」というのはあなたの気持ちを理解したということです。理解したのであって例えば「あの先こう。殺してやる」という気持ちは「ハイハイ」で受容したけれど、殺すことに賛同したわけではないのです。自由に表現させるというのは難しいことです。
自由に表現させると言ってもいつでもどこでもいいわけではありません。言っていい場所と悪い場所や弱いものいじめの言動や行動は実力できちんと阻止できる能力と威厳を持つことも必要です。他人を傷つける行為や言動の自由はないのです。最近は加害者の人権のみが主張されて、被害者の人権が守りきれていないように思います。危険な行為や言動を「今弱いものにキックしたのは誰だ。絶対に許さないぞ。なああんちゃってね。」などと自分の怒りをうまく演技しながら、子どもが危険な行為や言動をしないようにすることも大切と思います。
B統御されて情緒的関与
ケースワーカーが対象者の感情を敏感に受け止めて、適切な反応(応答)をなすこと。ケースワーカーは自分の個人的感情をケースワーク的関係にもちこまないこと。
アグレッシブな子どもは言動もアグレッシブです。対象者の感情を毎回毎回敏感に受け止めて適切な反応をすることは現場ではなかなか大変です。「ハイハイ」はいいやり方です。否定的な答えを言ったり、不適切な答えを言うよりはとりあえず「ハイハイ」と受容するほうがベターなのです。子どもも大人の愚痴が好きです。愚痴ですから愚かで病に満ちているのです。そのことに常に適切な反応をすることは難しい。しかもあまり真剣に聞くと子どもはファンタジーの世界に入ってしまって次々と頭の中で想作(想いを勝手に作る)していくものなのです。子どもの話は話半分と想いつつでも聞いてあげるのが良いと思います。
「うっちゃんが私を馬鹿といった。」
「私のかわいいゆうちゃんを馬鹿と言ったと。うっちゃン許さない。後でキックして殺しておくよ」
「うっちゃん。先生に言ったからね。遊ぼう」
て感じなのが子どもの世界でもあるのです。
個人的な感情をケースワーク的関係にもちこまないというのは私は無理だと思います。個人的な感情があるからこそ生きているわけですから。ただ個人的な感情をコントロールすることが大事だと思います。本来はそういう意味だと思うのですが、文字通り読むと誤解されそうなので、あえてこう書いてみました。私自身は小動物を殺したりすることは嫌いです。でも子どもたちの中には小動物を平気で殺す子どももいるのです。そんな告白があったときに慌てて「小動物を殺してはいけない。絶対にいけない」などと自分の感情をもろに出してしまうと子どもはそれ以後本当の話をしなくなるのです。「そう。ウサギを殺したの。いつ?」「それ以外には何をしたの?」「猫も空気銃で撃ったの」などと私はきちんと聞くようにします。その後である程度の信頼関係ができてから「ウサギと猫の話だけれど、どうも輪廻の考えがあって、人間も回りまわって猫やウサギになるようだ。だからやめたほうが良いと思うよ。」と伝えておきます。自分の個人的な感情をケースワーク的に関係に持ち込まないということは、自分の個人的な感情をコントロールするとのことであると思います。また小動物を殺すのはイヤだという考えの裏返しに私自身が小動物を殺してみたいという衝動がないとは言い切れないという人間の心理の難しさもあるからです。
C受容
現にあるがままの対象者を受け入れること、それは対象者が問題を発生させるに至った感情を理解し、情緒的レベルで受けとめること
児童館や児童クラブでのケースワークは児童館や児童クラブの職員が児童館・児童クラブのグループワークと一緒に行うことが多い。ケースワーカーを特別に置くことはまずない。したがって受容ということがたんにケースワークを担当する職員の資質に関わる問題ではなく、児童館・児童クラブの職員・ボランティア・利用児童全体が受容の姿勢を持つことが必要である。受容の心は言葉や理念の問題ではなくて、児童館・児童クラブ全体の空気のようなものであると私は考えている。この受容の空気とは例えば排他的でない・検定表などがない・誰でも気軽に入れる・名前がなくても遊べる・寝転がることができる・他人を奇異な眼でみないなどということができる。しかし言葉以上に大切なことはあかちゃんでも気軽に仲間に入れる雰囲気があることである。
餅つき会に静岡より遊びに来たなっちゃんは、4ヶ月から1歳まで新潟市にいて毎日児童クラブに遊びに来ていた。まだ自分の名前も言えなかったが、みんなのアイドルだった。平成15年10月に静岡に転居し、2ヶ月ぶりに児童センターに遊びに来た。小学生から高校生・大人までみんな大歓迎だった。まだしゃべることのできない子どもが自分からみんなと遊ぶような空気みたいなものを作っておくことが受容の基本であると私は思います。
受容には一人ひとりのあるがままを素直に受け入れることがある。児童館・児童クラブの活動が上記のようにあかちゃんでも受容できるような雰囲気にあれば多くの問題行動を起こした子どもも緊張感なく仲間になることができる。それこそが仲間作りの第一歩であると私は思う。受容ということは簡単そうで難しいことだ。アグレッシブな子どもはある程度受容されると、自分がどこまで思われているかを試すために故意に危険な行為をするものである。そういう時は感情は理解し、情緒的には受け止めるが、危険な行為は絶対に許さないという断固たる態度をとることも必要である。優しいばかりでは子どもと本当に向き合うことはできない。なつきちゃんでもわがままをすると私はかなり強く叱る。たぶんお父さん・お母さんよりも強く叱る。でもなつきちゃんは私を嫌ってしまうわけではない。ダメなことはダメと叱ることのできることが受容のもう一つの表現でもあると私は現場から思っている。
D非審判的態度
ケースワーカーは個人的価値観や善悪の判断で対象者を評価したり,批判しないこと
このことを私は職員としての権利や義務を除けば子どもも私のある意味では対等であると考えている。対等というのは子どもに媚びへつらうということではない。ダメなのはダメだし、危険な行為は許さない。けれど私も人間だからときたま(しょっちゅうかな)間違いをおかす。そんなときは素直に子どもに謝ろうというものである。子どもを間違って怒ってしまったときはことさら大げさに「ゆうちゃん。私は間違って怒ってしまいました。どうぞお許しください」と深々と土下座したりすることもよくある。私自身がこうした態度をとることで、私は子どもの裁判官ではないことをしっかりと示しておくことが必要である。危険な行為や言動があったときも、そうした行為そのものはきつく叱るけれど、それを見逃していた職員としての責任もあることを自覚しておくことが必要である。
王様ジャンケン遊び・参りましたジャンケン遊び・ジャンケンおまわりさん・ごめんなさいジャンケンなどのジャンケン遊びをロールプレー的に行うことにより、職員も対等な関係に時にはなることにより、いつもジャッジする立場を放棄してみることが大切である。子どもは敏感である。いつも裁判官的な立場から抜けでれない人にはシビアに見つめているものである。
非審判的な態度とは日頃の子どもとのごっこ遊びの中で培っておく必要があると私は思っている。
E対象者の自己決定
7原則の中心的原則である。対象者が自分の意志と力で自分のすることを選択し、決定できるようケースワーカーは援助する。
この中心的な課題こそが児童館・児童クラブの真骨頂というものである。前に遊びの選択肢が多様であることが児童館・児童クラブでは必要であると明記した。そしてそれらの遊びが子ども自身の選択によるものでなければならない。児童館・児童クラブでは極端に言えば必ずやらなければならないことなどないし、やっていけない遊びなどもそんなにない。(健全育成上好ましくない金銭の賭け事や猥褻なものなどをのぞけば)アグレッシブな子どもにとっても遊ぶ自由と遊ばない自由もあるのである。児童館・児童クラブがケースワークのある程度拠点となり、子どものためになるのは、対象者が自分の意志と力で自分のすることを選択できるからである。
この良さをうまく活用することが大切である。ところが現場の多くではカリキュラムを編成し、学校同様のきまりを守って正しい生活をのようなことを考えている人が多い。児童クラブの土曜日の活動でも朝学習・自由遊び・昼食・行事活動・おやつ・工作・反省会などとがんじがらめの時間制限のあるところもある。アグレッシブな男の子はこの規制に耐えかねて児童クラブを退会することも多い。放課後の短い時間でも連絡帳を提出し、宿題をやり、おやつを食べるのに20分以上もかけ、清掃をし、反省会をして連絡帳を受け取って帰るといったパターンで活動させているところもある。問題行動を抱える子どもに自己決定の権利があるのと同様にそうでない子どもももっと自己決定できるような活動パターンが考えられるべきだと私は思う。
また児童館の活動でも気軽な居場所になっていないで、教室や塾化してしまっていることも多い。図書室にまんがを置き、ゲームボーイやカードゲームの持ち込みを許可し、テレビゲームなども置けば子どもの来館数は増加する。その上で自己決定自己責任の原則をきちんと打ち出せば、児童館もずいぶん風通しが良くなるのではないかと思うのである。
以下の写真は平成16年1月5日月曜日の子どもたちの自由遊びの様子である。
児童センター入り口 トランプ遊び カード・ゲームボーイ遊び マンガ読み
ジグソーパズル バックギャモン 集中力ゲーム ビデオ鑑賞
ボール投げ遊び 登り綱遊び マット遊び トランポリン遊び
外の綱遊び ロープスイング遊び お山で遊ぼう みんなでドッジボール
F秘密保持
対象者に関する情報は他の誰にももらしてはいけない。これはケースワーカーとしての職業倫理である。
児童館・児童クラブのようなケースワークの受け入れをしていると、対象者の「秘密」などみんなの中でつつ抜けである。誰もがあの子はちょっと変わっているなどと思うものである。子ども達にも大人にもボランティアにもいろいろな子どもがいるのだということをあるがままに理解させる方が良い。自閉症で寂しくなると歌を歌っている子どももいる。いつも「お母さん何時にお迎えにくる?」と聞いている子どももいる。ダウン症で幼児言葉で話す子どももいる。そうした子どもを奇異な眼でみたり、からかったりする行為や言動をしっかりと注意することが必要である。
秘密保持という点ではもちろん「この子どもは注意欠陥症候群で薬を飲む必要がある」とか「ダウン症ですから大目にみてやろう」とか「障害児学級に通っているので」とかいったことを子どもや保護者に告げる必要はない。子どもってのはもっと敏感でわかるものである。わかった上で仲間に入れていける能力も十分にある。また何よりも障害児といわれる子どもが「健常児」をある意味では教えてくれることの方が多いのである。
3,自閉症児や多動の子どもの受け入れについて
重度の自閉症で一定の場所にいることができないで、館内から飛び出す。または多動で危険なことをやったり、自分で自分を傷つけたり、排泄等の習慣が身に付いていない子どもなどもいるものである。自分の生命を自分で守る能力=事理弁識能力の欠ける子どもの場合について考えてみたい。児童館・児童クラブの職員の現状では加配が見込まれないならば、保護者かそれに代わるべき人に一緒に児童館・児童クラブの活動に参加してもらって対応することが必要である。できるものはできるけれど、できないものはできない。加配等ができなくて、しかも保護者およびそれに代わる人が望むことができないなら断るべきだと私は思っている。
加配が見込まれるならば、事理弁識能力のない児童の対応は一番子ども理解をしている常勤の人が当たるべきだと私は思う。加配の人は児童館・児童クラブの全体的なカバー要員となるべきだと思う。それは事理弁識能力のない子どもの面倒をみることは一番能力のいることで、しかもその子どもを児童館・児童クラブの遊び集団の中で健全育成していこうと考えるならば、常勤者が責任を持って当たるべきだと私は思うのである。
保護者またはそれに代わるべき人に来てもらえるのが一番の早道である。事理弁識能力が十分でない子どもは環境の変化に敏感である。パニックを起こして外へ飛び出したり、奇異な行動をしたり、物を壊したり、やたらといろいろなところに排泄をしたりすることもある。保護者がそばにいれば安定を図ることが容易である。ある程度安定が図れれば危険な行為や館外に飛び出す等のこともなくなる。そうしたら保護者の付き添いをなくせば良いのである。私自身の経験からいえば安定を図るまでの期間は概ね3ヶ月〜半年である。もちろんその子どもによっては1ヶ月ということもある。ある程度安定をしたら、保護者にはいてもらうけれどあまり子どもには関与しないようにしてもらうことも大事である。思ったよりも子どもは環境に慣れるのがはやい。保護者の心配そうな顔が子どもに転移することもあるものだ。
4,重度な障害児の受け入れについて
児童館・児童クラブの現状でできることはやるけれどできないことはできない。養護学校の生徒さんも遊びに来ることあり、受け入れはするけれど、現在の児童館・児童クラブの現状で無理なことは無理である。
小学校が義務教育として国及び地方公共団体がかける費用は1年一人あたり100万円である。これに対し障害児学校の児童は1年一人あたり1000万円ほどの費用がかかっている。障害児教育にはそれなりに費用がかかっているし、施設設備もスタッフも充実している。観念論で「いつでも誰でも受け入れるべき」等の発言は実際に自分がやってみせて欲しいものだと私は思っている。
障害児学校と児童館・児童クラブの地域での連携はもちろん必要である。やれることからきちんとやることが大切だと私は思っている。
5、ケースワークと子どもの遊び場環境作り
ケースワークというと特別なことをやるように考えられがちである。むしろ私は自然体でユニバーサルデザイン的な発想を推し進めることではないかと考えている。誰でもが安心してコミュニケーションできるためには常に遊び場環境作りを心がけることが必要である。乳幼児からお年寄りまでが安心して遊べる環境を作ることが同時に児童の健全育成につながり、同時にケースワークを必要とする子どもにとっても遊び場が安全でキレイなことは大切である。ケースワークの研究をすることも大事であるが、自分の職場である児童館・児童クラブの遊び場環境作りと地域の遊び場環境作りをしていると、いろいろな子どもと知り合うことができる。本や研修会で学ぶ以上に地域での子どもや多くの人々から学ぶことが多いのである。
私は平島公園をキレイにする活動を行っている。この公園には自閉症の子どもも含めいろいろな子どもがやってくる。そして一番公園の草とりを頑張っている子どもは自閉症の子どもである。遊び場環境作りを通して仲間作りが図ることができるのである。できることをできることから始めよう。