子どもの変容・大人の変容

 ここ数年とても子どもの指導が難しくなってきている。私自身は子ども達に色々な経験をさせたいと努力しているが、子どもの変容に伴い、できなくなったことがある。

 

 一つは海水浴である。私は児童センターに勤務し、放課後児童のクラブを担当し、26年間に渡って海水浴を実施してきた。しかしながら昨年・今年と海水浴をすることができなかった。私の体力が低下してきたことにもよるが、子どもの変容が一番大きな問題である。

 海水浴は命がけの活動である。ルールを守らなければ死ぬことがある。だからルールの厳守をさせなくてはいけない。海までの行きかえりをきびきびすること。笛一つで海から速やかに上がってバディを組んで数が確認できる体制を整えること。決められて場所から出ないこと。死んだ真似やキックなどをしないことなどなど基本的なことがたくさんある。こうした集団の中における基本的なルールを守れない子どもがとても増加しているのである。

 

 この背景に大人の間違った権利意識があると私は考えている。本来権利はRightであり正しいが語源である。一つの行動をすることが正しいか正しくないかが基本的な判断の基点である。ところが安易に「私はボールを蹴る権利がある」「子どもは海水浴をする権利がある」「子どもは遊ぶ権利がある」などと主張されてしまう。結果として安易は権利主張は児童遊園等で危険なボール遊びをしていた場合に注意した人に対して『ボール遊びの権利がある』との主張になってしまう。そこで公園においてはサッカー・野球・花火は禁止となっていく。考えてみれば多少のキャッチボールや小さな線香花火・リフテング程度は他人に迷惑をかけない範囲で間違っていないであろう。だからやっても良いと私は思う。しかしながらキャッチボールが良いとのことになるとまた間違った権利主張へとつながるのである。

 

 海水浴のことに戻してみよう。子どもにとって海で遊ぶ経験をすることはとても有意義な経験である。だから海水浴はやりたい。そのためには集団的なルールを守る必要があるし、保護者も見守りボランティアをすることが必要である。また集団的ルールを守らない子どもへはきちんとある程度の制裁を加える必要がある。ところが多くの保護者は子どもには海水浴をさせたいが、集団的なルールを守ることは必要性を理解していない。少子化の中で集団としての子どもが危険な行動をすることを理解していない。また自ら自分の子どものための活動を手伝おうとしないで、評論家的に物事を考えている人が多い。この結果子どもも自己中心的な行動が多くなってきて、海水浴等の活動はできなくなってきている。

 

 こうした子どもの変容は大人の変容から来ているように私は感じている。大人自体が物事の動きについて自分を主体に置かないで評論家的に話をしている。「国民の権利が損なわれている」とか「住民はこう考えている」とか「みんなはこう思っている」等の言い方が多くなってきている。それに権利がくっついて国民の権利・住民の権利・市民の権利・みんなの権利などという抽象的な権利が横行している。たとえば公園がゴミとタバコのポイ捨てと犬の糞害と雑草で汚くなっているとする。ゴミとタバコを拾い・雑草をとる主体としての活動を抜きにして「町を花と緑」になどと主張しても始まらない。またせっかくきれいにした公園にゴミを捨てて平気な人ほど権利主張が強いことも私自身が感じることである。大人の間違った権利への考えが子どもも悪くしていると私は思う。

 

 具体的な提案としては評論家的な論評をやめることである。主体としての自分が何をするかを抜きにして論議をしないことである。海水浴が子どもにとって必要なら自分は「これこれができるから海水浴をやろう」と主張することである。自分は何もしないで「内の子どももぜひ泳がせてください」等の安易な『権利』主張が日本をダメにしているのではないかと私は考えている。

 第2に権利とは『正しいことかどうか』であるから、ある人がある場所である行為をすることはみんなの迷惑にならないで正しいことかどうかを考えることではないかと私は思う。たとえば女装する権利があるかないかを考えた時に、家の中で女装をすることは誰に迷惑をかけないから権利として認められるであろう。しかしながら実習生が女装をして実習する権利はないだろう。自分の家の玄関に靴を脱ぎ捨ててもかまわないであろう。少なくとも家族以外に咎められることはない。しかし公民館や児童館においては靴は揃えられなければならない。自宅のゴミ箱に紙くずをシュートして外れてもそのままにしておいても良い。しかし児童館で紙くずをシュートすることは正しいことではない。だから権利ではない。

 第3に集団と個人の違いを考えることである。人間は一人では生きていけない動物である。だから個人一人一人として良い子どもであっても集団となるとまったく別の行動をすることが多いものである。集団としての行動を個々人のレベルで考えないで集団として対処することが必要であろう。つまり集団的行動には集団的な対処が必要ということである。集団的な方向性に対して個々人の自覚の問題に還元することは間違いである。

 

 子どもの変容と大人の変容は欧米風の個人・個性が大切・権利主張が大切との考えに依拠しているのであろう。しかしながらこの欧米の考えは最終的には「神がみておられます」とのキリスト教の考えが根本をなしていると考えられる。だとするならば多くがクリスチャンでない日本人は別の論理を考える必要があると思うのである。私はそれを世間が許すか許さないか・世間が正しいと思うか思わないかと言った集団的な考え方も再考するべきではないかと思っている。ただし昔風の世間と言うわけではなくて新たなコミュニティを作っていく努力をすることを前提にしてである。

 

 今年の夏休み中に実習生が7人やってきた。この7人の実習生とボランティアの学生6人で昔の重いテントを5組撤収をした。この時に私が学生達に教えたことである。

「個人主義が正しそうに言われるけれど人間は一人ひとりでは何もできない存在である。これからテントを撤収するけれど一人では撤収は困難である。でも3人で力を合わせ、心を合わせれば簡単にできる。」

「じゃあテントの片方の端を3人で持ち、心を合わせ、行動を一緒にして片方に倒す。絶対に自分だけ速くやったり、かっこつけてはいけない。」

「次にテントのひもをみんなではずそう」

「反対も3人で倒そう」

「テントのシートをはずして畳もう」

「骨組を分解して同じものをまとめて縛ろう」

これで一つのテントは解体し後片付けが終わった。ついで次のテントへ

「さっきは学習のためにゆっくりモードでやったがちょっと速めて通常モードでやる。テントを倒す3人以外の10人は自分が何をしたら良いか考えてやろう」

2組目のテントも片付いた。同様に夕暮れが近づいてきたので倍速モードに突入し、3組目・4組目・5組目も凄いスピードで撤去され、みんな働く充実感を味わい、地域の方々には

「今年の学生さんは凄いじゃないか」と評価された。

最後の反省会で

「悪しき個人主義・個性の尊重をやめて集団の中で助けあって活動することで個々人の個性が伸ばされることを学ぼう。いろいろな人がいて助け合うことこそが互いの学びであることを大切にしよう」と話をしたが、テント撤収部隊以外の学生さんも35人ほど集まりとても盛り上がった。