実践の知と評論の知(2012年5月15日)
児童健全育成指導士 田中 純一
始めに
現場で実践していると、いろいろなことがわかってきて、新しい手法なども開発できるものである。このことを提案すると多くの評論的な意見が出てきて、ややもすると多数決で負けてしまうこともある。強引に意見を通せば嫌われものになることもある。実践の知は泥臭く、評論の知はスマートそうに見える。これを突破するために、仮説を設定して、実践の知と評論の知についての私の基本的な考え方をまとめてみたいと思う。そして「」評論家に負けないようにと考えている。
基本的な考え方(臨床の知科学の知とのアナロジー)
哲学者中村雄二郎さんはその著『臨床の知とはなにか』(1992) において、臨床の知と科学の知について以下のように述べている。(私の要約である)
近代科学の基礎としての科学の知は客観性・普遍性・論理性の3っつの基本命題によって成り立っている。客観性とは誰の目で見ても正しく、普遍性とは何回やっても同じ結果となり、論理性とは論理的に矛盾がないことである。科学の知は近代科学の発達の基礎となってことはまったくのその通りである。これは否定されるものではない。しかしながら、科学の知のみが全てではないと中村雄二郎さんは提唱している。それが臨床の知である。臨床の知とは主観性・個別性・宇宙性である。一つの事象は科学の知のみで解明されるわけではない。ある個人に即効性をもって効いた薬も他の人にとって効かないばかりでなくて、薬害をもたらすことも多々あるものである。一般論的には科学の知が大切であるが、個々の場合においては主観性・個別性・宇宙性が問題となる。
ハリ治療は腰痛などには劇的な効果を示すことがある。ぎっくり腰などでついさっきまで歩けなかった人がスイスイスイと歩き始めることもある。しかしながらハリに対して恐怖心のある人は腰痛が改善されないばかりではなくて、貧血で倒れてしまうこともある。
以上のように科学的に針治療の有効性が証明されても、個々の場合では臨床的な対応が必要となる。
臨床の知と科学の知を上記のように考えると、実践の知と評論の知においてもおなじように類似化(アナロジー)することができるのではないかと思う。それが私の仮説である。このアナロジーから実践の知は主観性・個別性・宇宙性の要素が強く、評論の知は客観性・普遍性・論理性の要素が強い。これらはお互いに補完しあって現実の問題に対処する必要性のあることである。しかしながら、現場において、実践の知よりも評論の知が上であるかのように思われている。そこに問題が生じているのが現代ではないかと私は思っている。
なお本来的な評論の知を評論の知とし、評論の知の真似事で実際はたんなる知ったかぶり的なものを「」付き評論の知と考えて、表現している。
なぜ評論の知が勝ちそうになるのか?
臨床の知と科学の知と同様に、実践の知と評論の知も互いに補完しあう関係であるべきなのに、現実問題は評論の知が幅をきかせていることが多い。これはなぜであろうか?
評論の知が科学の知とアナロジーされているとすると、評論の知は客観性・普遍性・論理性に基本がある。客観性・普遍性・論理性に対して、最近の日本人は過度に信じすぎている傾向がある。客観性・普遍性・論理性は無謬であるかのような信仰に似たものを抱いている。しかしながら、客観性・普遍性・論理性は無謬ではない。
これは簡単なことで証明できる。ある個人がお亡くなりになった。現実世界では客観的にも普遍的にも論理的にもその個人は存在しない。これは間違いのない事実である。しかしながら、事実ではあるが真実ではない。亡くなられた人の子どもにとってみると、現実には存在しない故人も心の中では存在し、大きな影響を与えている。その意味で評論的な知では存在しないものも実践の知では存在することになる。『坂本龍馬に学んで今こそ平成維新をやろう』などのスローガンは多くの人の心を揺るがすことがある。その意味で坂本龍馬や織田信長は日本人の心の中で生きているのである。証明は出来なけれど、存在していることは確かなのである。
評論の知はこのような人間の心の動きを理解できていない。さらに言うならば、日本人には日本の文化が脈々と受け継がれている。英語の学習をしていたわかったことがある。『絵で見る英語の本』の中での話である。外で帽子を風で飛ばして、帽子を追いかけて、やっと拾った。そのハットの下に100ドル札があった。周りに誰もいなかったので、『これは私の100ドルだ』と家に持って帰った。奥さんも喜んでくれて、奥さんはスカートを、本人は欲しかったパイプを買った。との記述があった。日本人ならこの種のことは恥ずかしくて書けないであろう、アメリカでは常識のようだ。これは考え方の基本的な違いである。この考え方の基本があるから、日本人は災害などが起きても略奪行為をしない。これが日本人の常識である。また死んでしまえば、仏様として故人をあがめるのが基本である。死んでからでも墓をあばいて鞭打つような文化は日本人にはない。これだけの文化的心理的な違いがあっても、評論的な観点で物を述べてしまうことがあたかも正しいと考えるのは大きな間違いである。
一般的に評論の知は科学の知よりも若干劣っていることもある。本来の科学の知においては、きちんとした検証がなされなければならない。しかしながら、世間での常識的な見解が科学性と誤解されていることがある。例えば、学級崩壊のプロセスにおいて、面白くない授業→騒ぐ子ども→ただ叱るだけの教師→騒ぐ子ども達のグループ化→なお叱る教師→子ども達の叛乱→学級崩壊となることが多い。ここで面白くない授業が学級崩壊の一つの目に見えない要因である。このことを見ないで、一般的に騒ぐ子どもの指導をいかにすべきかがとか、子どもの家庭環境などを調査するなどとの考えは評論的な知においてやりがちなことである。結果的に押さえ込むだけになって問題解決に至らないことが多い。
遊具の安全基準なるものなどその典型である。子どもの事故が起きると、その子どもの責任・親の子どもの指導義務・事故の起きた場面での人間関係などを考慮することが大切である。しかしながら、遊具に問題がなかったかを問うのが評論の知であり、マスコミである。結果的に遊具が次々と撤去され、新しい遊具には事故防止が中心となったものになる。ブランコに当たって怪我をすると、ブランコの周りに鉄製のフェンスを作る。そのフェンスに立ち乗りをする子どもが出てくる。『フェンスに乗ってはいけません』の表示が必要となる。
評論の知における問題点は、多数決の考え方にもある。一般的に評論の知が受け入れやすいために、多数決においては、評論の知が勝つことが多いのである。本当の評論は、現場でのきちんとした検証が必要だが、たいていは普遍化(=一般化でしかないのだが)の前で省略されてしまうことが多い。このために科学の知のレベルのきちんとした調査が実施されない。科学的な検証さえなされないで多数決で決定することが多いから、本来の目的と違ったものになることが多い。
実践の知においては個別性・主観性・宇宙性も必要となる。例えば、花と緑の遊び場環境作りとの考えで、公園緑化に取り組んだとしても、その公園にどのような花を植えるかは個別性・主観性・宇宙性の問題である。チューリップが好きな人もいれば、マツバギク・シバザクラ・アネモネ・コスモス・シロツメクサが好きな人もいる。水やりをする人の好みの花を植えることにすれば、楽しく水やりと手入れをしてくださることであろう。ところがこの土地にはシバザクラが良いなどとの評論的な決定をしても誰も水やりや手入れをしない。結果的に花は枯れてしまうのである。
植物と個別性・宇宙性との関係で考えてみる。シバザクラが好きだとしても、仮に放射能でその地域が汚染され場合には、菜の花を植えるのが必要となる。菜の花はセシウム等の放射能を土の中から集めて、根と茎に貯める能力があるという。種にはセシウムは貯まらない。種でディゼルエンジンの燃料を作り、茎と葉と根を腐らせてガス燃料を作り、最後にセシウムを含んだ廃棄物を圧縮して処分する。このことで放射能汚染された土地が放射能除去されるのである。菜の花の宇宙性みたいなものを感じる。このような宇宙性というのはいろいろなところに眠っているのである。実践のプロセスの中で見えてくるものが多いものである。
地球が出来て45億年、生命誕生から40億年が経ったいるとのことである。しかも40億年前に誕生した生命は一回も完全に死滅しないで、その遺伝子を現代に伝えている。たった一つの受精卵からお母さんのおなかの中で40億年の生命の成長を遺伝子は伝えて、赤ちゃんを誕生させる。これらの遺伝子の不思議さは科学の知で全てが解明されるわけではない。宇宙の知の不思議さの中にある。あかちゃんを相手に遊んでいると、寝ているのに微笑んでくれたり、目を開けているときは大人の顔をじっと見つめてくれる。科学的な証明は出来ないにしても、事実として存在している。このことで、大人は本能的に子どもを可愛がろうとする。ただここで考えなければならないのは、こうした大人の反応はある程度は本能的なものであるが、学習による成果でもある。小さい時に乳児と接する機会がないと、ホモサピエンスは乳児の微笑みや見つめることに上手く対応できないこともある。そこで、ホモサピエンスは群れを作って、自分の子どもではない乳児の子育てを学ぶことが大切となる。これは科学性の問題ではなくて、宇宙性の問題ではないかと私は思う。そして実践の知として、子ども達が仲間作りが出来る環境(=乳児と小学生や中学生が一緒にいる花と緑あふれる環境)を作る必要性があると考えている。
実践の知と評論の知の融和を
自分自身のこととして考えてみること(主体・客体・第3者を変更して考えてみる)
実践の知と評論の知の補完的な関係性を作るためには、まず第一義的に「」付き評論家が物事の個別性・主観性・宇宙性に歩みよることが必要であると考えている。自分自身がその物事を実践すると仮定して、どのように出来るかを考えるとの手法とまず第一にとることが大切でないかと考える。
ADHD傾向の子どもがいて、クラス崩壊状況に陥っていると仮定した場合に、この子どもの対処の手法を考える場合でケースを考えてみよう。いろいろな文献をあたり、教育的な観点を探り、その子どもの社会的歴史的家族的背景をきちんと探ることも科学的な対処として不必要ではない。必要である。しかしながらそれは実践的な観点からは必ずしも有用であるとも限らないのである。基本的に考えなければならないのは、その子どもが自分であるとして、自分として理解が出来るかを考えることが必要である。何よりも相手がそれを求めているからである、評論家的な観点から、「正しい」とか「間違っている」とかを相手が求めているのではないからである。本人は自分自身でもどうしたら良いかわからないけれど、何とか解決方法を求めて暴れているのである。その相手に対して評論家的に「暴力はいけない」とか「あなたの気持ちも理解できないわけではないけれど」とかの評論をしても、そこの浅さを子どもに見透かされて、それまで以上の反撃を受けることもある。
自分自身がその子どもであったらどうするか?その子どもの親であったらどうするか?周りの子どもであったらどのように考えるか?そして教員の立場だったらどうするか?など主体・客体・第3者の立場になってみて考えることが必要であろう。
現場主義で考える
『現場百回』というのは犯罪捜査における基本のように考えられています。私自身も現場主義がとても大切と考えています。現場を見ないでいろいろと論議しても見えるものも見えないものです。
前職の十数年前のことです。遊び場のコンクリートが盛り上がって、危険になり始めたところがありました。平らな所が盛り上がるとそこに躓いて、転び、硬いコンクリートに頭をうって怪我をすることがあるものです。そこで直属の上司に
「危険があるので、すぐに修繕しましょう」と提案しました。直属の上司は形式主義で評論家タイプの人でしたので、『どのように危険かを文書にして写真を添付して説明しなさい』みたいなことを言ってきました。
「入り口の15メートル先が危険なので見に来てください」と言ったら、『見なくてもいいから起案を起こせ』みたいな話でした。仕方がないので、一応写真を撮って、届けました。直属のその上の上司は現場主義の考え方の人でしたので、その日のお昼時に「どこがどのように危険か?」とやってきました。現場に出かけ、
「このコンクリートの盛り上がりが問題です。早急に修繕が必要です。」と話したら、
「田中さんならどうする」
「今すぐに仲間の大工さんを呼んで修繕してもらいます。1万円くらいで直してくれるでしょう。正式に見積もりを取ったりしていたら、時間もかかるし、見積もりも含めて2万円はかかるでしょう。」
「じゃあそれでやってみてくれ」とのことになりました。それを横で覗いていた直属の
上司は「」評論家ですから、ずいぶんと恨まれ、嫌がらせを受けることになったのですが、それはまあ子どもの安全のために仕方のないことでした。問題なのは現場主義の人がいないと手続きの方が子どもの安全よりも優先されてしまうことが多いことです。
仕事柄、いろいろな青少年健全育成の会議などに出席することがあります。学校5日制などの会議も出席しました。評論家の方々がゆとりの教育のために学校5日制が必要だと縷々説明をされました。でも本質的に私は学校5日制は、教職員の週休二日制のことであると思います。現場にいれば言葉をたくみに操っても、学校5日制が子どものためになる可能性が極端に少ないと感じていました。しかしその種の意見は悉く排除されて、日本の教育は教職員の週休二日制となってしまいました。このことで日本の子どもの学力は低下し、ウィークディに授業時数が増加して、ゆとりのない教育となってきています。
実践の知から考えてみると、教育効果があがるのは、子ども達の相互関係がとても大切なのです。本来的に優秀な指導者(=教員)とは、子ども同士(=生徒同士や学生同士や仲間同士)の人間関係を上手く組織できる人です。この観点から考えてみると、子ども同士の関係性を大切にする時間としての休み時間や土曜日の放課後の時間や運動会や学芸会などは大切なのです。この時間を少なくしてしまう学校週休二日制は基本的な間違いです。でも評論の知から考えると学校5日制が正しくなってしまうのです。
これと同様なことが少人数学級の問題でもあります。実践の知から考えれば、多数の子どもがいて、子どもの相互関係が大切ですから、多人数学級が必要となります。私も現場にいて保護者の相談を受けることがたくさんありました。相談の中で『クラスの人数が多すぎて、先生が自分の子どもをしっかりと見てくれない』との相談はありませんでした。圧倒的に多いのが『気の合わない先生のクラスになり、私も子どもも困っている』との相談がとても多いのです。だとするならば、複数担任制にすればよいだけのことです。1年生が80人・2年生が80人いたら、1学年40人2クラスにして、2学年に5人の教員を配当すれば、効率的で本当にゆとりのある教育が出来ると私は思うのです。
マスコミと「」評論家は世間的な顔を気にします。ですから、現場主義ではなくて、世論受けをねらいます。『少人数学級で子ども達をしっかりと教育しよう』『一人ひとりに目配りが出来るゆとりある教員配置を』『30人学級を』とかのスローガンはかっこよいけれど現場主義ではないのです。
下記の写真は風船ドームの中で子ども達が遊んでいる様子です。大人は安全管理上、中に入って危険がないように見守っています。しかしながら、大人が一緒にこの中で遊んであげても子どもの発達に良い影響があるとは限りません。むしろ、子どもが子ども同士でお互いの関係性を持ちながら、互いの遊びを膨らましていくように働きかけることが大切となります。『子どもは子ども同士』というのが実践的な知からの考えです。この考えからいえば、障害児に対する加配職員は、その子どもに対する加配ではなくて、そのクラスや集団に対する加配と考えることが必要となります。でも評論の知的な考えかたから、子どもべったりに加配職員がついていることが多いものです。結果的に加配職員がついたことでその子どもの発達が阻害されて、自立や自律の出来ない子どもが増加しているのが現状です。
このような状況を突破することが大切と私は考えています。
仮説証明法の活用(実践的証明法としてのアブダクションの考え方)
第2に仮説証明法(=アブダクション)の考え方を取り入れる必要性があると思う。証明法には演繹法と帰納法がある。同時に仮説証明法との考え方がある。熱が出た場合にとりあえず、頭を冷やしてあげる。水分補給をするなどの手当てをする。しかしながら、それでも治らないなら寝るとか熱さましの薬を飲む。でも調子が悪ければ、通院する。医療機関では肺炎を起こしていないか、気管支炎がないか調べたり、のどを見たり、脈拍を測ったり、体温を調べたりするであろう。その段階で考えられる手当てとして必要な医療手当てをこうじるであろう。それでも治らなければ、血液検査やレントゲンなどをとったりするであろう。このように熱があるからといって、全ての検査をするわけではなくて、一定の仮説を立てて、必要な見立てをし、必要な治療をして、その結果でまた次の手法を考えていくものである。
仮説証明法は現実的な対処のできる証明法である。評論的な知においても実践的な知においてもある仮説を立てて、実践し、結果から次の手法を導いていくことが大切である。原則論・普遍論では何も生まないこともあるのである。
個別性・主観性・宇宙性が必要とされる場面においては、アブダクションの手法が必要となるのである。なぜならば、いつも実際の事象は個別的であり、主観的であり、偶然的な意味で宇宙的でもあるからだ。
2歳児の幼児のバケツの奪い合い
2歳児の子ども同士のケンカの場合で考えてみよう。2歳児の子どもは主観性が強く、個別的であり、大人の常識の世界と違う意味で宇宙性を持っているように思われる。公園に遊びに来て、他の幼児の砂遊びのバケツをとった場合で考えてみよう。2歳になったばかりの子どもは隣で楽しくバケツに砂を入れて遊んでいれば、当然遊びたくなる。それが自分のものであるか、他人のものであるかはまだそれほど考えていない。また相手の子どもがいつもの仲良しさんの女の子なら『一緒に遊ぼう』とか『私はしゃべるを使うからバケツ持っていてね』とか言うかもしれない。その意味で個別的である。またその場の雰囲気でいつもは他の人に貸すことが出来ない場合でも急に貸しても良い雰囲気になっているかもしれない。誕生日に素敵なお祝いをもらえるので嬉しさのおすそ分けをしたいこともある。その意味で宇宙性の要素もないわけではない。そのようなケースであるならばそのままの状態を維持することになる。逆に、バケツをとられまいと相手を叩いたり、叩かれた方が叩き返したりのケンカになった場合で考えてみよう。評論家的な考えでは
「○○ちゃんそれは△ちゃんのものだから、勝手にとってはいけないでしょう。」とか
「△ちゃんもそれくらいのことで叩いてはいけない」等の説得や説諭をされることが多い。しかしながら、たいていはケンカがエスカレートするだけである。そして
「ケンカをするなら、おうちに帰りましょう。もう公園には連れてこないから。」といったパターンになるのである。
実践の知から考えるならばたいてい私は目そらし方略を使います。バケツの奪い合いをしている幼児に
「あれ?あそこにきれいな四葉のクローバーがあるよ。見に行こう」と誘って、美人ママにも協力してもらい、みんなで四葉見つけをすることがあります。また
「今度新しく入って滑り台がとてもおもしろいんだよ」とか
「小屋にシャボン玉があるからシャボン玉遊びをしよう」とか
「ボールをキックして遊ぼう」とかいろいろな手法を使って、バケツの奪い合いのケンカよりも楽しそうなことを提案します。するとケンカをしていた二人もその遊びに入ることがよくあります。そして遊びの中で仲良しになり、二人でバケツを使って遊べるようになるのです。
「」付き評論の知のように評論家的裁判官的態度で裁いて善悪を教えても、結局は互いに遺恨を持って(とくに親同士が)別れるよりも目そらし方略の方がベターです。ベターかどうかはアブダクションの考えを使って、説得説諭方略と目そらし方略のどちらが効果があり、子どもの成長に役立つか両方の手法を使ってやってみることではないでしょうか。一般論的な説得説諭方略のみが正しいと考えるのはあまりにも無駄な苦労が多くなるように私は思います。
不登校の場合
一般的に不登校といっても様々なケースがあり、「」評論の知のように、家庭環境・子どもの生育暦・学校での教師や友達との関係などと分析してみ見えないことがあるものです。実は不登校も個別性・主観性・宇宙性が絡むからです。一時期において、例えばカイコが繭を作って閉じこもって変身を待つようなことも子ども達にはあるのです。
とても真面目な女の子で、親思いの6年生の子どもがいました。1年生から児童センターのクラブに所属していましたのでよく知っている子どもです。その子どもが9月から突然学校に行かなくなったとのことでお母さんの相談を受けました。
一人っ子で、お母さんもお父さんも大切に育てています。また、友達関係も学校での教師との関係も良好です。私の勤務していた児童センターでも特に問題のあることはありませんでした。お母さんの話を聴いても不登校になる要素がありません。不思議だなあと思いました。
「こんど本人とも話してみますが、大丈夫と思いますよ。あまり心配しないほうが?」と送り出そうとしたら、お母さんが
「アパートが改築されるので、アパートを出なくてはならないし、同じ小学校校区にいるために、校区内にアパートを探すのに忙しいのに。子どもは学校に行かなくなるし。もう困ってしまう」とつぶやきながら出て行こうとしました。
「お母さんちょっと待った。子どもにアパートが校区外になると小学校を変わらなければならないと話していますか?」
「はいもちろん」
それでわかりました。5年半いた学校を転校するのが彼女は嫌だったのです。アパートが取り壊されないようにアパートを守っていたのです。
「お母さん。もう小学校6年生ですから、校区内に住まなくても、校区外変更で同じ学校に通うことができますよ。そのことを娘さんに伝えてください」
これで不登校は無くなりました。不登校ではなくて、お父さんとお母さんが働いて、自分が学校に行っている間にアパートがなくなったらどうしようと考えていて、学校に行けなかったのです。
このように一般論的に不登校を考えるのではなくて、その子の個別性・主観性を考えて原因をアブダクション的に考えていくことが必要となります。そして突然、考えもしなかったようなことから、見えてくるものがあるものです。「」評論的な知では理解できないことがあるだけではなくて、「」評論的な知のみに固執すると見えるものも見えなくなってしまうことがあるのです。評論的な知だけではなくて、実践の知を取り入れていくことも必要となると私は思います。
失敗からの学び
一般的に評論の知では失敗から学ぶことが少ない。これは実践の知も同じ傾向があるが、実践の知の場合は失敗から学ばないと何も出来ないことが多いので、評論の知よりも少ないように私は感じている。
多くの活動は失敗を前提としているものである。私も失敗をしないように今までの経験から計画を立てるけれど失敗することも多いものだ。二十年前くらいに有明の風との風車を考案した。これそのものはなかなかの作品で良かったのです。あまり良かったので、新潟市のひまわりクラブと合同でやっていたヤンチャフェスティバルに、各ひまわりクラブなどで作成してもらって、1000ヶ位つないで楽しもうとの計画をした。ところが作ってきたものを運ぶためにつないでおいたら、こんがらがってしまった。また丸いふくらみを持つ風車を袋に入れておいたら、折れてしまった。結局のところ上手く回らなくて失敗であった。このことで学んだことは、有明の風みたいなものは、その場所で作成するべきで、作っておいて持っていくのは無理だということだ。風車をたくさん作っておいて持ち運ぶのは難しいとの学びであった。失敗は失敗である。同じ失敗を繰り返してはいけないけれど、失敗を恐れてはいけない。同時に失敗を認めないで成功と言い張るのはなおいけない。評論の知の場合、失敗を失敗した人の責任と責めることが多い。また成功のみを評価の対象とすることも多い。そうではなくて、失敗から学ぶ姿勢が一番大切と私は思っている。
柏崎に親子遊びの研修会が平成24年5月10日にありました。県庁の子育て支援センターの研修会で知り合った方の紹介で出かけてきたものです。せっかく行くのですから、いつものようにたくさんのことを伝えたいなあと思いました。風船遊び・チラシ遊びとチラシヨーヨー作り・ジャンボ風呂敷遊び・グーチョキパーで何しよう&なべなべ底抜けのオリジナルバージョンなどをしました。概ね上手くいったのですが、ちょっと欲張りすぎたなあと思いました。これ以外にも折り紙もやろうと思っていました。乳児も多かったので、折り紙はやめましたが、やはり欲張りすぎだったとの反省をしました。参加者も親子140名位いたので、ワイアレスマイクも用意してもらって助かりました。私は要らないかなと思っていたのですが、あってよかったです。こんな風にいつも失敗から学んでいくことが大切かなあと感じています。
実践の知からの歩み寄り
私自身も含めてのことです。現場主義・実践主義の考え方の人は、評論的な立場の人に『どうせ現場のことなどはわかるはずがない』との諦めがあることも事実です。でもそうやって諦めてしまうと歩み寄りが出来なくなります。「」評論家の大流行の時代の中でも説明すればわかってくれることもあるのです。ですから実践の知から評論の知への歩み寄りも大切となります。
数値化すること
実践の知の数値化が大切なことと私は感じています。幼児のバケツの奪い合いのケンカについて、同じケースで目そらし方略と説得説諭方略を使った時の実際での成功例失敗例をある程度数値化して見せれば、目そらし方略が効果のあることが証明できます。
私はカプラのワークショップをしています。カプラを積んでいると、友達が側を通ったり、振動があったり、その子ども自身の不注意でカプラが壊れることが多々あります。こんな時に切れやすい子どもは
「○○が俺のカプラを壊した」と口攻撃をしたり、ののしったり、暴力を振るったりする子どもが出てきています。
「わざとじゃないから、許しなさい」
「○○ちゃんが壊したのではなくて、あなたの不注意でしょう」
「暴力をふるうことはだめです」
「またがんばりなさい」などの「」付き評論的な説諭はあまり上手くいかないので。そこで私はカプラが崩れて怒りそうな顔になった瞬間に間髪を入れずに
「良い音がしたね」との声かけをすることが大切と提案しています。この手法を使う前は、カプラのワークショップでカプラが崩れて切れてしまう子どもが2パーセント(50人に1人)くらいいて、説諭で上手くいかないで別室でのクールダウンが必要なケースが50人のワークショップで2回に1回くらいありました。つまり、1パーセントくらいはクールダウンする必要性がありました。
崩れた瞬間に『良い音がしたね』との手法を使うと、切れてしまうパターンが0.2パーセント以下になりました。(10回のワークショップで1回くらいしか怒りへとならない)別室でのクールダウンの必要も同様に0.1パーセントになりました。(20回のワークショップで1回くらい)それだけではなくて、崩れたことによる他の人の切れないまでの心の動揺が減り、ワークショップの成果が上がるようになりました。
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怒りへと発展する |
クールダウンが必要となる |
説得・説諭の場合 |
20人(2%) |
10人(1%) |
目そらし方略の場合 |
2人(0.2パーセント) |
1人(0.1パーセント) |
※50人のワークショップで20回1000人を対象とした場合
実践の知からも数値化して示してやることが必要であると私は考えています。なお人間は同じパターンでは飽きてしまって効果が無くなります。そこで
「良い音がしたね」だけではなくて
「カラカラカラとカラみたいだね」
「すばらしい音だね」
「あまり素敵な音で驚いた」
「そこまで積み上げたのに残念だったね。でも良く頑張ったね」
「壊れたけれど、人生はそんなもんだね」
「破壊がなければ創造はないね。頑張ろう」
「ごめん。先生があまり素敵なので、念力で壊してしまった。本当にごめん」
「ちょっとしたバランスが難しいね」
「もう少し、大胆に積んだ方が高く積めるかも」
「ちょうどおやつにしようと思っていた。ここで一休みの合図だね」などなどいろいろな声かけを考えておくことが必要となります。実践の知は個別的主観的宇宙的ですから、声かけのパターンは無限となります。その無限さをある程度数値化すれば、実践の知と評論の知は歩み寄れるのではないかと私は感じています。
アクションリサーチの考え方
仮説証明法(=アブダクション)の考え方と似ているのですが、アクションリサーチの考え方があります。以下は日本大百科全書より
集団力学の創始者レビンが提唱した研究法。第二次世界大戦中、少数民族集団や食習慣の改善などといった現実的な社会問題の研究に関与していたレビンは、現実の社会のなかに構成される小集団を対象として、その集団や成員の改善や向上の実践と、集団過程に関する基礎的な研究とが、研究者とその道の専門家や現場の関係者との協力によって、実践→研究→実践というように表裏一体をなして循環的に進められる必要性と有効性を強調し、これをアクション・リサーチとよんだ。実践的段階で生じた問題は、基礎的研究によってその機制や原理が解明され、基礎的研究による知識や技術は現実社会の場で実践的に試行され、さらにその結果の検討が基礎的研究に還流される。なお、これに現場の当事者の訓練過程も含めて、アクション・トレーニング・リサーチと称することもある
私流に解釈すると、一定の問題が生じたときに、実践的に関与して(≒ワーカー自身が主観的にも関与して)、その結果をリサーチしてまたアクションへと変容させていくことではないかと考えている。「」評論の知のように客観的・普遍的・論理的分析をしている間に物事はどんどん悪化していくことがよくあるものである。東北大震災のようなことが起きたら、分析するだけではなくて、とりあえず何をしなければならないかのアクションを起こすことが必要となる。自衛隊や消防の派遣や救援・救援物資や食糧のとりあえずの空輸などが必要となるであろう。同時並行的に被害実態の調査もなされ、それに基づいて、必要な救助体制が準備されることとなる。とりあえず最低限必要なアクションを個別的な事例に応じて起こすことが必要となる。
実践の知においてアクションリサーチの考え方が必要なことは、暗闇を手探りで歩くことに似ているように思う。目が見えて、見通しがきく場合であれば、ある程度、長期的な計画を立ててやることが出来るであろう。見通しを元に客観的論理的に考えることも出来る。しかしながら見通しがきかない場合は、まず手を出してみて、足をゆっくり進めて、その反応で次の行動を決めなければならない。
新しく物事をやるというのは、暗闇の中を歩くのに似ている。実践の知においては過去の事例が少ないことが多い。新しい事態に対応するためには、まず小さなアクションを起こし、そのアクションの結果を検討して、問題点を整理して、次のアクションを起こすことが必要となる。
私は自治会活動やボランティア活動において、会長を3人〜5人の複数にすることを提案をしている。1人の会長に2人の副会長のパターンは会長の独走を防ぐことが出来ないからである。副会長は会長を補佐することになっている場合が多く、決定権を会長が持っていることが多いからである。会長を3人もしくは5人にすると合議制となるので、会長の独走は出来なくなる。このことを提案した時に多くの「」付き評論家の方々に反対された。前例がない。誰が会の代表者かわからなくなる。責任体制がはっきりしない。などなどである。アクションリサーチの考え方や仮説証明法の考え方を説明して、『とりあえず、それでやってみて、問題があったら、元の会長1人制に戻せばよいではないですか』との提案をして、合意を得て、会長3人制5人制のパターンを実現させた。
会長兼代表・会長兼総務・会長兼会計といった同等の権利の会長3人制度になることによって、それぞれが自分の活動を責任を持ってやることが出来るようになった。3人の意見が食い違った場合は、多数決とすることにした。結果的に1人会長の独走を防ぐことが出来た。また2対1で解決できない場合は15人の役員会を招集して、役員会において決定することにした。この場合の役員は3人会長を含め全役員が同じ投票権を持つので、3人会長制で2対1となっても、役員会で極端な話2対13になってひっくり返ることもありうる。
ボランティア活動や自治会活動においては、営利を求めているわけではない。地域の仲間作りや環境美化や子ども達の健全育成などである。したがって、活動において議決をしなければならないことはわずかな会費の使い道である。巨額の資金を投入して、利益結果を求めるわけではない。会費等を使わないのであれば、道路を清掃したり、公園を緑化することは基本的に他人に不利益を与えない限りいろいろなことが出来る。ですから議決がなくても実施することが出来ることは多いのである。自宅で読み聞かせの会を開催して、子ども達の健全育成をしても咎められることはないだろう。ただ自治会費を使って、お茶やお菓子を提供する場合に議決が必要となる。そしてたいていの場合、役員の会議費と称するのみ代を削ってはどうかの提案となり、1人会長制で否決され、3人会長制で可決されることが多いように思う。
自宅での読み聞かせ活動においても明らかなように、まず読み聞かせのアクションがあり、その成果がある。ついでその成果に対して評価が出て、自治会費の有効利用との考え方へと発展するのがアクションリサーチの考えである。このためには実際の現場の評価が必要となるので、実践の知となるのではないかと思う。
戻って考えてみるに、自治会長3人制度から出発して、会見監査2人・環境衛生部5人・健全育成部5人との体制を作ってきている。環境衛生部長・環境衛生副部長などの役職と序列化をなくした。このことで上意下達体制を突破しつつある。もちろんこの手法が正しいとは限らない。一つの手法としてアクションを起こし、その結果を検証して、よりよい方向性や手法を探ろうとの考えである。損得の伴わないボランティア活動からの一つのアクションリサーチ的な試みである。
再び臨床の知科学の知へ
私は実践の知と評論の知は臨床の知と科学の知とアナロジーすることができるとの仮説を立てて、実践の知と評論の知の検証と相互補完関係のあり方について考えてみた。ここでアナロジーとした臨床の知と科学の知について再考をしてみたい。
科学の知は普遍性・客観性・論理性が基本である。これに対して、臨床の知は個別性・主体性・宇宙性が盛り込まれている。これらの関係性について考えてみたい。
普遍性と個別性
普遍的であることは科学的実験においては大切である。水に食塩等を入れて、電気を両極から流してやれば、水素と酸素に分解されることは、日本でもアメリカでも中国で実験しても同じ結果となるというのが普遍性である。しかしながら、現実の世界では、物事は全て個別的であるのも事実である。純粋な水は存在することはあまりないだろう。温泉水の電気分解をしたら、すべての温泉水が同じことになるとは限らないであろう。赤いきれいな紫陽花を買ってきて、植えてみても、いつも赤が咲くとは限らない。日光と地質と降雨量と平均気温などで大きく変化するであろう。もしかしたら、全て枯れてしまうかもしれない。この個別性を現場ではいつも考える必要性がある。実践の知においては普遍性だけではなくて、個別性の問題を重視する必要性がある。
我々が実践する場所は常に社会的・歴史的・空間的な制限の中で動いており、普遍性のみでは実践的ないことがとても多いのである。
英語の学習で考えてみよう。外国語としての英語は魅力がある。学習するに当たって、いろいろな手法があるであろう。耳が聞こえなければ、ヒアリング主体の学習方法は無理である。目が見えなければ字から入ることは難しい。ガードナーは多重知能理論の中で人間の能力は大きく分別して、言語的知能・論理数学的知能・身体運動的知能・空間的知能・音楽的知能・博物的知能・対人的知能・個人内知能の八つがあるといっている。個々人の得意は能力を活かして学習することが適切であろう。英語の音楽から入る人もいれば、英語の映画を見ることが好きな人もいるであろう。または文法解釈から日本語からに比較で考える人もいるかもしれない。留学体験か英会話教室が良いかもしれない。このように学習においても本来的に個別性に強く影響されているのである。ですから、一定の学習成果をおさめることが目的