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                               日 本 海ーその海と生物ー

                                                                                                              

1 日本海の海洋構造

 日本海は太平洋の付属海で、その大きな特徴は外海と繋がった海峡が狭く浅いのに対し中央がスリ鉢状で大変深いことです。その最深部は日本海の中央部に広がる広大な日本海盆のやや北側に位置し(北緯41°12′東経137°36′)、その深さは丁度富士山を逆さにした高さに僅か81mおよばない3,695mです。
 ところで、日本海はその表層を対馬暖流「暖流表層水」が流れていますが、その量は日本海全体の約1%程度で垂直的には日本海沿岸では100m程度の深さまで存在しますが、北からの"リマン寒流"と沖合の日本海中央海域の北緯39~40度付近で接し極前線を形成します。そして表層数十m程度から沿海州海域では数mの表層でリマン寒流と混合して消失することになります。リマン寒流と対馬暖流が接する前線ではお互いに入り込み、蛇行して複雑な形状を形成して幾つかの冷水塊を形成することになります。そしてこの入り込んだ複雑な海況がスルメイカ等の好漁場を形成することになるのです。
 そして対馬暖流の下層には他の海洋に見られない日本海特有の海洋構造が見られ特徴となっています1)
 すなわち、対馬暖流の下層には沿岸で水深300m、沖合で水深100~200mに「暖流中層水」が存在します。その下には”日本海固有冷水”が存在するのです。さらにこの日本海固有冷水は水深200~300m「中間水」、水深300~1,000m「深層水」、及び1,000mから深海底までの「底層水」に分けられそれぞれ水温・塩分濃度に特徴があります。日本海固有水の水温は周年変化がなく、中間水5℃前後、深層水で1℃程度、底層水で0.5℃となっています。
 さらに日本海は外海と4つの海峡で接続し、対馬海峡の韓国と対馬の間の西水道は幅約68Km、平均水深96m、対馬と九州の間の東水道は幅約99Km,平均水深50mです。津軽海峡はその幅約20Km、平均水深114m、宗谷海峡は幅45Km、平均水深45m、間宮海峡は幅8Km、水深4~20mです。このことは大変重要なことを意味し、日本海が外海と隔離した状態にあり、一度汚染されるとその回復は不可能な海底地形をしていることを物語っているのです。
註1) 宇田・辻田・盛田・宮田・飯塚他共著『対馬暖流開発調査報告書第一輯』水産庁編1958.



2 日本海の名称

 「日本海」と言う名称はロシア皇帝アレクサンドル一世の命を受け、文化元年(1804)世界周航の折り、長崎にレザノフ使節と共に来航したクルーゼンシュテルン提督1)が江戸末期の文化12年(1815)に「海図(かいず)」にあらわしたことから一般化しました。「海図」に記載されたと言うことは非常に重要な意味があります。現在のように空の便が発達していない時代、海は最も重要な交通手段であり、全ての海運・海洋交通の関係者は「海図」を利用したからです。そして世界中に「日本海」と言う名称が周知されるようになったのです。
 ところで歴史的に最初に"日本海"と言う名称が地図に表記されたのは古く、日本では江戸幕府の成立の前年に当たる慶長7年(1602)北京でカトリック教の布教活動を行っていたイタリア人宣教師マテオ・リッチによって著された「坤輿万国全図2)(こんよばんこくぜんず)」です。この地図には漢字ではっきりと「日本海」と書かれており、これらは当時ヨーロッパにも伝わって行ったものと思われます。
 この他享保27年(1737)発行の「世界大地図帳」に収録されているマチアス・ソター編纂の日本地図に「日本の北の海」と記されています。又フランス人、ロベル・ボーゴンジイーは宝暦元年(1750)発行の「日本帝国図」に「日本海、メール・ド・ジャポン」の名を使っています。さらに江戸中期の地理学者山本才助は享和3年(1803)「訂正増訳采覧異言3)(ていせいぞうやくさいらんいげん)」を編纂し、その中に"日本海"の名称を記載しています。
 その他の呼び名として、日本の西の海・韃靼海(たたーるかい)・シベリア南海・朝鮮海・東海(とうかい)・朝鮮東海等がありますが、現在韓国では日本海を「東海(とうかい)"トンヘ"と呼んでいます。
 近年韓国は竹島を実効支配すると共に日本海の名称を”東海”と改めるよう国連やヨーロッパ諸国等で熱心に働きかけています。そのためヨーロッパの学童の教科書には大半が日本海[東海]又は東海[日本海]と併記されるようになりました。韓国の人々が自国内でどう呼ぼうと一向に差し支えありませんが、世界に向って日本海という正式名称を変更させようとしている事は理不尽な行為であると思うのです。決して名称の変更も併記も許してはなりません。このままでいくとその内に日本海の名称が消えてなくなってしまう事が懸念されるのです。日本国政府も公式に認められているはずの「日本海」4)の名称がいつのまにか世界地図から消えてなくならないようあらゆる努力を怠ってはなりません。

1)クルーゼンシュテルン提督(Ivan.Fyodorovich Krusenstern.1770~1846);ロシアの偉大な海軍軍人・海洋学者・探検家。1803~1806にナジェージタ号(450トン希望号)・ネバー号(370トン首都の川の名)の二隻でロシアとして初めて世界周航を行い世界各地の地理・海洋・水路・民族の調査を行なった。特にオホーツク海・日本海・東シナ海・大西洋・北西太平洋の海洋観測を実施し世界で初めて深さ338mまでの水温の鉛直観測を行なった。彼はまだ海図に名称の記載のなかったこの海に”日本海”という名称を記載した最初の人である。「日本海」の命名の他黒潮を”日本海流”と記載している。無記載の海図であれば、例えば航海を命じた当時の皇帝アレクサンドル一世の名を冠するとか、「ロシア東海」・「シベリア南海」とかロシアの国威高揚につながる名称を記載しても差し支えないところ、この海が日本列島で7割がた太平洋から隔離された付属海であることの地理学的立地条件から日本海の名がふさわしいとしたのである。
 航海記の中で彼は「人はこの海を朝鮮海と名付けたが、朝鮮の海岸には極僅かな部分しかあらわれていないので、この海は”日本海”と名付けるがよかろう」と記している。これらの探検調査記録は『世界周航記』として著わされ名著として世界各国語に訳され、このオランダ語訳がシーボルトによってもたらされ、幕府天文方高橋景保との間で日本地図との交換書物の一冊でもある(シーボルト事件)。ここでも明らかなように海図上に書き込んだのはクルーゼンシュテルンであり、彼が「日本海」の事実上の名付け親ということになり、日本国はヨーロッパからこの名称を逆輸入したもので、日本人が勝手に付けたものではなく、第三者による地形学的にも適正な名称であるといえる。
 彼は当時世界最高の国際的教養人であり、ヨーロッパ各国の学術会員の称号を与えられ、後に海軍兵学校校長・海軍大将となりロシア海軍の育成に多大な貢献をした。なお『世界周航記』の日本に関わる箇所については羽仁五郎訳註『クルーゼンシュテルン日本紀行』1931がある。絈野
(かせの)義夫著『日本海の謎』築地書館1982 p2~3に筆者加筆。
2) 坤輿;大地・地球と言う意味。
3)「采覧異言」;享保10年(1725)完成した新井白石の著書で、屋久島に潜入して捕まったイタリア人宣教師シドッチの取り調べ及びオランダ商館長からの西洋知識を纏め、7 代将軍家継に献上したもの.
4)「日本海」の正式名称が国際機関で認知されたのは1920年代の国際水路機関IHO
 (International hydrographic organization)の一連の会議で公式に決定したものである。



3 日本海の誕生

 日本海はどのようにして出来たのでしょうか。昭和14年(1939)に1つの仮説が提唱されました。(渡辺久吉1938,その他
 それは『日本海周辺の地層には日本列島や隣接大陸のような1億年前の白亜紀から3400万年前の古第三紀の地層が欠如しており、新しい2000万年前の新第三紀の地層からなっていることから、新第三紀に激しい地殻変動があり、陥没によって海となったもので、それ以前は大陸であった』と言う説です。
 それでは、もし大陸の一部が陥没して海底となったとすれば、一般に、大陸の地層を形成している「花崗岩」で構成され、厚さ30Kmにもおよぶ"大陸地殻"であるはずです。ところが昭和32年(1957)旧ソ連の海洋調査船ヴィーチャン号(勇者という名の5,500トンの当時世界最大最新鋭の海洋調査船)によって、日本海の海底は大陸地殻でなく、一般に海底を形成している「玄武岩」で構成された厚さ数Kmの薄い"海洋地殻"であると言う大きな発見が有りました。日本海は太平洋に隣接する小さな"付属海"であるにも関わらず、太平洋と同じ海底地形を持った本格的な海だったのです。
 それではどうして日本海は海洋型の海底地殻を持った海なのでしょうか。この発見がきっかけとなり、大陸地殻がない理由について諸説が提唱されるようになりました。藤田(1972)はこれを解りやすくまとめて説明しています。それによると、
1)「大洋恒久化説」;日本海の深海部には元々大陸地殻が無かったという説(ワシリコウスキー)この説は元々大陸地殻が無かったというのだから話は簡単です。
 しかし新第三紀までは大陸であったという説をとるならば、その大陸地殻が何故海洋地殻になったのかの理由として三つの説が提唱されました。
1)「大洋化説又は塩基性化説」 ;現在の海は新第三紀になり大規模に陥没して大陸地殻はマントル内に沈み込み、改めてそこに火山活動で玄武岩の海洋地殻が形成されたという考え方(ベロウスソフ, ルーディッチ1960)
2)深海部の地殻は新第三紀以前に大規模に隆起し、その為その部分が大規模に削り取られ、大陸地殻の大部分が失われた後、その不均衡を是正する為に急速に沈下した。その地殻が大洋型地殻と同じように見えるのだという説(牛来正夫1966)
3)現在の深海部にはかって大陸地殻があったが、それが二つに割れて一方の大陸地殻が日本列島となり東に移動していった為、そこに大きな裂け目が出来大陸地殻の下にあった玄武岩層が引き伸ばされつつ海底に現れたと言う説。(寺田寅彦1934、村内必典1971)本質的にはこの説と変わらないが近年のプレート・テクトニクス(Plate tectonics.日本語に訳せば「板造構論」筆者加筆)の考え方と結合させた説が知られています。(松田時彦・上田誠也1971)1)

 現在考えられている説は、第三のプレート・テクトニクス説で今から2600万年以上前には大陸の一部であった部分に、裂け目が入り二つに割れて一方が東へ移動し、日本列島の基盤となり、そこに出来た大きな裂け目に大陸地殻の下にあった玄武岩が現れて海底が形成された、と言う「大陸移動説」が有力です。
 近年の古地磁気2)の研究から、東日本の基盤が反時計回りに、西日本の基盤が時計に移動したことが実証されたのです(鳥居他1985・浜野・当舎1985)
 そして平成元年(1989)深海掘削船ジョイデス・レゾリューション号の日本海掘削によって、少なくとも2000万年以上前に日本海が誕生した事が解ってきたのです3)

1)藤田至則著「日本海の起源」 『海洋科学』1972、3月号
2)古地磁気;岩石は磁性を帯びた鉄・ニッケル等を含んでおり、固化した時の地球磁場の方向に磁化しそれを保持ているので、この残留磁気を測定する事によりその岩石の当時の場所及び年代が推定出来る。
3)玉木賢策他著 特集「日本海ー誕生から現在までー」 『科学朝日』1990、5月号




4 対馬暖流

 対馬暖流は、黒潮の分流で奄美大島海域で分かれて、対馬海峡から日本海に流入します。海峡は、韓国と対馬の間の西水道が幅約68Km、平均水深96m、対馬と九州の間の東水道が幅約99Km,平均水深50mで狭く浅い地形です。
 対馬暖流の名称が初めて出てくるのは、今から130年前の1873年(明治5年)ロシア人の"スクレンク"が著した海流図1)からです。
 ところで対馬暖流は、対馬海峡から日本海に入って来ますが、その水量は1秒間に300万立方メートルで、これを新潟県庁を1杯の升として換算しますと、1秒間に16,000杯が流入していることになります。
 そしてこの海流は、日本の沿岸を北上し、新潟海域では佐渡海峡に入り込み北上する第一分枝流・その沖合を流れる第二分枝流、さらに日本海中央の海域を流れる第三分枝流の三つの流れと、朝鮮半島東岸を北上する流れがあります2)。これらの速さは、時速2Km程度と、ゆっくりした流れです。
 日本海を北上する三つの流れは、秋田県男鹿半島沖合で一つにまとまり、70%は津軽海峡から太平洋に流出していきますが、30%は更に北上し、宗谷海峡からオホーツク海に流出するものと、朝鮮半島沿岸を北上し、北からのリマン海流と混合するものとからなります。
 そしてこれらの温暖な対馬暖流が、冬季の冷たい季節風と接して、大量の降雪を日本海側にもたらします。
 また対馬暖流の勢力が次第に強くなる春季からは、豊かな南からの海の幸を運んでくれます。その中に晩春から来遊する"フクラギ"があります。体長30cmのブリの子を、新潟の地方名で"福来”(ふくらぎ)と言い、『福が来る』という事を意味しています。日本海は長い厳しい冬が過ぎると暖かく穏やかな春と海の幸を対馬暖流がもたらしてくれるのです。
注 1),2) 川合英夫著「日本海における海流像の変遷」 『対馬暖流』 日本水産学会編 恒星社厚生閣 1974 p7~26



5 日本海の生物相

 日本海に生息する"海産動物"は約1,200種で、その中で魚類が約550種、エビ・カニ類が600種、イカ・タコ類が約50種です。
 ところで、日本列島の近海には、世界の他の海域に比べて"海産動物"が多く生息し、魚類だけでも約2,700種がいます。これは同じ緯度の、ほぼ同じ広さの地中海で530種、北米西岸の海域で600種と比較しても、5倍もあり桁違いに多く、日本海でも2倍の魚類が生息しています1)
 しかし私達が日頃食べている日本海で年間1万トン以上漁獲される、"大衆魚"は、イワシ・スルメイカ・サバ・タラ等14種にしか過ぎないことも大きな特徴です。如何にこれらの魚種が、私達にとって重要な食糧資源となっているかが解ります。
 さらに日本海の生物生息の特徴は、大西洋や太平洋の成立が、およそ2~3億年と推定されているのに対し、日本海の成立から、高々2500万年程度しか経過していないため、"真の深海生物"が存在しないことです。
 深海魚は一般にその起源が、古い地質時代に眼の退化や発光器等が発達して特殊化し、深海の環境に適応した「一次的深海魚」と、今から170万年前の若い、氷河時代以降に、寒冷の浅い海域から沿岸性の形態特徴を残したままで、深海の環境に適応した「二次的深海魚」に分けられますが、日本海にはこの「一次的深海魚」が生息せず「二次的深海魚」のみが存在するのです。
すなわち、北の海域の浅海の寒冷の生物が、日本海の冷い深海へ、その生活領域を拡大して行ったと考えられているのです2)
註1)西村三郎著 『日本海の成立』 築地書館1973
 2)『創立百周年記念誌』新潟県水産海洋研究所発行1999 浜渦 清著「日本海海譜」 pp249~251



6 国連海洋法条約ーその歴史的背景と概要ー

1国連海洋法条約成立の時代背景
 元来海洋は、一国家の領有するものではなく、全世界の人々の共有する財産であり、海洋とはそのような特徴と性格を持っているものである。
 15世紀以前の古い時代では、例え一国が広大な海の領有を主張したとしても、それを独占支配する能力は未だなく、又その必要もなく海洋は自由であった。しかし15世紀後半にスペインとポルトガルによってローマ法王アレクサンドル六世の裁定により世界の海洋が二分され大西洋上のケープヴェルデ諸島の西方約661Kmの子午線西経46°30′より東側(アフリカ・アジア地域)で発見される陸地はポルトガル領とし、西側(南北アメリカ新大陸地域)で発見される陸地はスペイン領とするというものであった。(トリデスラス条約1494)1)
 その後16世紀半ばには、オランダ・イギリスが進出し先の二国と衝突し、海洋は自由であると言うオランダのグロチュウス(Hugo Grotius 1583~1645 )の『自由海論』が次第に支持されるようになり、広域支配よりも完全に守れる範囲を領海として定め、あとは公海とする「広い公海・狭い領海」として全ての国家、全ての人々の自由で共通のものとしておいた方が得策であると言う考え方が大勢を占めていった。そこから「海洋自由の原則」が確立していったのである。
 しかし第一次世界大戦後から海洋に関連する技術の開発はめざましく、第二次世界大戦終結直後の1945年(S20)9月28日、米国のトルーマン大統領は、
 「大陸棚の海洋底とその地下の天然資源に関する米国の政策」
 「公海の区域の沿岸漁業に関する米国の政策」

という二つの海洋・漁業施策に関する”トルーマン宣言”なるものを発表した。2)
 この宣言は大陸棚の海底と地下資源に対して、その管轄と管理を主張したものであり、又大陸棚の上の海域にその米国に近接する公海の区域に於ける生物資源の生産力の維持保存に付き自国が特別の利害関係を有すると言う主旨のものであつた。
 この宣言出されるとこれが引き金となって、主としてラテン・アメリカ諸国が、まず海洋200海里の主権を主張した。
 海洋はこの時代(第二次世界大戦後)から、船舶・航空機の発達、石油等の海底鉱物資源の採掘技術の発達、大陸棚の生物資源の独占等、容易に海洋を支配出来る状況が整ってきたものであり、広大な海洋の領有支配を沿岸国が主張するようになって来たのである。又新しく独立した国家のナショナリズムの高揚も国土周辺の海洋の主権を主張するようになってきたという時代背景がある。
 ここでは海洋の新秩序を確立するための、国連を中心とした協議の経過と、1982年(S57)に採択され成立し「60ケ国の批准と1ケ年後」の発効用件を満たして1994年11月16日発効した通称「国連海洋法条約」(正式名称は「海洋法に関する国際連合条約」という)について述べる。

2条約成立の歴史的経過
 旧国際連盟は、かつて国際法典編纂会議の議題の一つとして領海に関する立法を企画した。すなわち、1924年(T13)旧国際連盟総会の議決により国際法典編纂促進専門委員会を設け、1927年には事務局内に準備委員会を発足させ、領海の幅・領海の持つ権利の性質と内容等の調査を実施している。その中で"領海"について17(米国・英国・豪州・カナダ・南ア・日本・独国etc.)が領海3海里であるとしている。又4海里はアイスランド・ノルウエー・スェーデン・フィンランドの4国で、6海里ブラジル・イタリー・チリー等12国、12海里がポルトガル・旧ソ連の2国であった。
 1930年国際連盟国際法典編纂会議の第二委員会(領海関係)に於いて各国代表は領海の幅をどうするか、接続水域を設けるか否か、について検討協議を行ったが、条約として纏め法制化することは出来なかった。法典化に失敗したことは、諸国の領海拡張を加速することになり、例えば、1932年比国は所属する諸島の全ての範囲の海域を領海とした。又メキシコは1935年に3海里から9海里に拡張した。
  第二次世界大戦後国際連合の設立に伴い海洋秩序の国際法典の成立をはかるべく1951~1956年に国連に於いて検討協議が行われた。
1)1958年(S33);第一次国連海洋法会議が開催。
 この会議に於いても、領海の幅を決める事が出来ず、海洋は自由か否かと言う国際法の基本原則の問題を未解決のまま将来に残す事となった。しかし領海の法的地位・領海を決める場合の基線・湾・島・低潮時隆起・無害航行権等について規定することが出来た。
2)1960年(S35)第二次海洋法会議。
3)1973~1983年(S45~58)第三次海洋法会議。
1976年(S51);深海底の問題等を除き実質的な条約草案が完成。米国・カナダ・EC・旧ソ連が排他的経済水域を設定(1977年から施行)
 1977年(S52);日本国も「漁業水域に関する暫定措置法」を公布{1977(S52)7月1日}より施行。
 ところで我が国は、1633年(寛永10)江戸幕府により鎖国令が出されてから開国まで国を閉ざしていたため、その間の230余年間、対外的にほとんど問題は無かったわけであるが、明治維新の開国により、領海法等の法的整備が必要となり1871年(M4)太政官布告第546号により、着弾距離説を注書して「およそ3海里、陸地から砲弾の達する距離」としたが、翌1872(M5)同布告第130号を公布し正確な数値を示し「海里は緯度1度の60分の1をもって1里と定め、陸里16町9分7厘5毛」とした。(1海里は地球の緯度1度の60分の1の長さを言い、1,852mである)。これ以来1977年(S52)の100年余り「領海3海里(約5.6Km)を国是としてきたのであるが、旧ソ連との漁業交渉に当たり、同じ土俵に乗らなくては不利を生じる事から、取りあえず暫定的に公布したのである。これにより日本国は「領海12海里(約22.2km)へと移行したのである。
1982年(S57);国連海洋法会議に於いて「国連海洋法条約」を採択。
1983年(S58);我が国、同条約に署名。
1993年(H5)ガイアナが60国目の批准国となり、1年後の発効が決定。
1994年(H6)11月16日「国連海洋法条約」(本文320条・9付属書)が正式に発効した。

3条約の概要3)4)5)
1)領海[第2~54条](Territorial Sea)
 範囲を12海里とする。直線基線を用いることが出来る。領海内に於ける「無害通行権」を認める。国際海峡については特別の通過通行権を認める。
 瀬戸内海は歴史的水域の"内水"として国際的に認知されている。ロシア極東のピョトール大帝湾は1957年(S32)以来、チユメン・ウラ河口とポポロトヌイ岬を結ぶ湾口115海里の陸側水面を内水と定めて、この基線からさらに沖合に領海12海里を設定している。我が国はこれを認めていない。
2)接続水域[第33条](Contiguous Zone)
 領海に接続する水域(24海里以内=領海12海里+12海里)であって、領海内に於けると同様に通行・財政・出入国管理・衛生上の取り締まりを行う。
3)排他的経済水域[第55~75条](EEZ Exclusive Economic Zone)
 範囲を200海里とする。(1海里=1,852m、約370km)沿岸国はその水域に於ける天然資源、その他の経済的な主権的権利を有する。沿岸国はその排他的経済水域に於いて漁獲可能量(TAC Total Allowable Catch)を定めると共に、生物資源の保存及び管理に関する措置を講じなければならない。
4)大陸棚[第76~85条](Continental Shelf)
 大陸縁辺部の外縁までの区域(最大350海里、約648km)とする。天然資源の開発は、沿岸国の主権的権利とする。
5)内水[第8、50条](Internal Waters)
 内水は領土と同じ性格を持ち、基線の陸地側の水域としている。
6)公海[第86条](High Seas)
 いずれの国の排他的経済水域・領海・内水・群島水域にも含まれない海洋の全ての海域を言う。
7)深海底[第136~155条]・その他。
 深海底及びその資源は人類共通の遺産と位置づけ深海底鉱物資源の開発は国際的な管理下に置く。海洋環境の保護・保全・海洋の科学的調査、海洋技術の開発・技術の移転等に努める。

1)飯島幸人著 『航海技術の歴史物語』 成山堂書店 2002
2)今田清二著 『公海漁業の国際規制』
(INTERNATIONAL REGULATION OF HIGH SEAS FISHERIES.) 海文堂文庫302、 1959
3)(財)日本海運振興会・国際開運問題研究会編 『新しい海洋法』―船舶通航制度の解説―成山堂書店1995.
4)外務省経済局海洋課監修 『国連海洋法条約』[英和対訳] (財)日本海洋協会発行 成山堂書店(発売元)1997.
5)漁業水域研究会編 『漁業水域に関する暫定措置法の解説』 新水産新聞社1982.



7 佐渡海峡と佐渡島の活性化

 佐渡海峡は佐渡島姫崎と信濃川河口左岸を結んだ線と佐渡島沢崎と越後米山崎を結んだ線で囲まれた海域を言う。面積約3,000平方キロメートル、海峡北部は本州側大陸棚が大きく張り出し(約40キロメートル)その先端は佐渡島との距離が数キロメートルと狭く北方両津湾沖に抜ける細い地溝状をなしている。海峡南海域は、佐渡海嶺が小佐渡山脈,小木半島と延び、更にその先は米山崎に向かって佐渡堆にまで達している。佐渡堆は越後側大陸棚と近接し、その南西斜面は切り立った断崖となって富山舟状海盆と境をなし、佐渡海峡を明瞭に区分している。
 海峡中央部は"佐渡海盆"と呼ばれ、水深500m台のお椀の底のような平坦な海底形状をしており、その面積は海峡面積の約1割を占めている。佐渡海峡の形は丁度日本海全体を1/400程度に縮小したような相似形をしている上に、岸深の沿海州と佐渡前浜・日本海側の大陸棚張り出しと海峡内越後側の張り出し・日本海が小さい海であるにも関わらず水深が深い事(最深部3,796m)と海峡内も538m(註1)と深い事・双方とも海底がお椀状になっている事等いずれもよく似た海底地形を成している。
 ところで日本海は有名な芭蕉の句にあるように"荒海"の代名詞のように言われているが、これは冬期の北西の季節風が強く、小さな台風が毎日吹いているようなもので、おまけに対馬暖流の暖かい海流とシベリア下ろしの寒風が接する事によって大雪をもたらすので、ことさら日本海に面した裏日本を暗いイメージにしている。
 しかし本当に日本海は大暴風が吹き荒れる荒海なのだろうか。私はそれほどでもないと思っている。それは太平洋側の台風と比較してみればよくわかる。南太平洋上で発生した台風は発達しながら日本列島を襲い多大な被害をもたらすが、日本海に抜けると殆ど勢力を失い温帯性低気圧になるのが通例である。{稀に1954年(S29)台風15号(別名洞爺丸台風、同船だけでも乗客乗員1,314人中遭難犠牲者1,155人を出した)のように日本海に入って再び勢力を盛り返し風速毎秒45mにまで発達して猛威を振るった事例もあるが}
 すなわち、1968年(S43)から1990年(H2)までの22年間の新潟気象台発行『新潟県気象月報』のデータをみると瞬間最大風速が毎秒30mを超えたのは外佐渡相川でも27回(発生率0.5%)に過ぎない。しかも毎秒40m上の大暴風は一度も起きていない。{最大でも1982年(S57)9月に毎秒34.2mを記録}最も発生率の高いのは毎秒10~20mで45%を占め、毎秒20~30mの強風も14%にしか過ぎない。このように毎年台風の襲来で多大な被害をこうむる太平洋側に比べて日本海は何と穏やかなことであろうか。"荒海"という汚名を返上したいものだ。
 更に佐渡海峡内に目を向けると佐渡前浜海域が周年穏やかな海域である事がデータからも裏付けられる。外佐渡相川で最大風速を記録した同日の佐渡前浜羽茂の最大風速を比較してみると平均で58%減少している事がわかる。勢力が半分以下にまで衰えているのである。
 更に私の冬期の前浜地先での波浪観測結果{1981年(S56)12月16日から翌1982年(S57)3月21日までの69日間}を解析してみると波浪は著しく弱く最大有義波高は1.76mで0.5m以上の有義波高(註2)の発生率は4.9%にしか過ぎない。このように佐渡前浜海域は地形的に大佐渡・小佐渡の二重の高い山脈(大佐渡山脈には日本の島嶼では最も大きな山脈が連なっている。最高峰は金北山1,172m・次が妙見山1,042m)に守られ冬期でも温暖で、あたかも越後の"小関東"と言った気候環境なのである。その上対馬暖流第一分枝流が海峡内に流入し北上しているため、海水温は暖かく前浜地先では冬期でも表層が10℃以下になる事は殆どない。
 更に佐渡海峡は越後側からの適当な大陸棚の張り出しと平坦な水深500m以深の佐渡海盆を有し、越後側中央部には大河津分水が開け毎秒250トンという大量の栄養分の多い河川水が流入している。
 そのため海峡内は有用な水産生物資源が豊富で、特に幼稚仔魚の一大揺籃場となっており、この海域が生物資源の再生産の重要な役割を果たしているのである。
 表層は対馬暖流の流入のため温暖で低層は冷たい海洋深層水が滞留している事により、暖流系の回遊魚(マイワシ・マサバ・マアジ・トビウオ・サヨリ・クロマグロ・ブリ・するめいか等)・寒海性の回遊魚(マダラ・スケトウ・ニギス・ハタハタ・アブラツノザメ等)・中底層魚{カレイ・ヒラメ類(ヒラメ・タマガンゾウビラメ・マガレイ・マコガレイ・ムシガレイ・ヤナギムシガレイ・ソーハチ・ヒレグロ・アカガレイ・ナメタガレイ・ウシノシタ等)・カナガシラ・アカムツ・キツネメバル・クロソイ・マダイ・チダイ・ヒゲソリダイ・アンコウ・ホッケ・ハツメ・イシナギ・メバル・アマダイ・イシモチ・アイナメ・キス・ムツ・ヤナギノマイ・タチウオ・カワハギ・ずわいがに・べにずわい・けがに・ばい貝・ほっこくあかえび・もろとげあかえび・とやまえび・くろざこえび・くるまえび・まだこ・みずだこ・やりいか・ほたるいか等}まで豊富に生息しており豊かな生物資源の宝庫となっている。
 私は1970年から1975までの6ケ年間底曳網による佐渡海域周辺の冬期の漁業資源調査を従事したが魚種・数量共に豊富な事・産卵のために回遊してくる寒海性の底魚類の産卵場となっていること(マダラ・スケトウ・アブラツノザメ等)・寒暖両流の幼魚・稚魚が多く生息している事等を明らかにする事が出来、その結果を『新潟県沿岸海域に於ける底魚類の生態資源に関する調査報告書Ⅰ~Ⅳ』として取り纏めた。

それらの知見をもとに佐渡海峡の特徴をまとめると、
1) 海峡内は温暖で冬期の季節風の影響を殆ど受けない。
2) そのため海峡内では周年操業が可能である。
3)冬期でも暖かく表層でも10℃以下になる事は殆どない。
4)水深が深く500m以深海域が10%を占め低層の水温は3℃以下と冷たい深層水が滞留している。
5)越後側から中央部に大河津分水河口が開け、栄養分の多い河川水が大量に流入している。
6)河川水が大量に流入するという事は陸上由来のプラスチック等の分解されにくいゴミ(註4)も蓄積される事をも意味する。
7)前浜地先には幼稚魚の揺籃場となるホンダワラやアマモ等が繁茂し、海藻類の群生が見られ成育環境に最適な環境を有している。
8)そのため海峡内が有用水産生物資源の宝庫となっている。
9)外佐渡海域の冬期は常に北西の季節風が吹き、"小型台風"が襲来しているような状況にあるのに対し海峡内はその勢力は半減し穏やかな海況を呈している。
等の事が言える。

 これらの佐渡島の特性から今後の抱負を述べると、
 佐渡海峡を水産資源の再生産海域と位置づけ、資源保護海域として保護していく施策を推進していかなければならない。資源管理と種苗放流・ゴミ汚染防止対策等を積極的に行い、この恵まれた海域を汚染することなく大切に守っていかねばならない。
 今後佐渡島では冬期の観光客の誘致を積極的に進める方策を工夫すべきである。私は新幹線で訪れる湯沢町・魚沼市・小千谷市等スキー場を持つ市町村とタイアップして、訪れるスキー客に佐渡島まで1~2泊よけいに足を延ばしてもらい、美味しい冬場の"新鮮な地魚"{甘えび(和名;ほっこくあかえび)・ずわいがに・べにずわい・深海ばい貝(大越中ばい・つばい・加賀ばい・ちじみえぞぼら・加茂湖産牡蠣)・マダラ・ノドグロ(和名;アカムツ)ブリ・やりいか・するめいか}を賞味してもらってはどうかと思っている。
 更に今まで最も厳しく過酷な冬期の北西の季節風を自然が与えてくれた"恵みの風"ととらえ風力発電エネルギーとして活用したいものである。更に周辺海域に於ける潮流波浪発電・海洋深層水(註3)温度差発電(既に前浜松ヶ崎で取水されているが、大規模に発電用として増設する)・バイオマス資源発電(ホンダワラ類等の海藻を原料としたメタン発酵による発電)等も考えられる。

1)冬期スキー客を佐渡島まで呼び込む誘致運動(新鮮な活魚の地魚提供可能)を、スキー場を持つ市町村と連携し合って進める。
2)風力発電を大規模に進める。
3)潮流・波浪発電を開発する
4)海洋深層水温度差発電(夏期)の技術開発を行う。
5)バイオマス発電の技術開発を行う。

 今まで北西の季節風を冬期の厳しい自然の厄介ものとして見てきた視点から、恵みの天然資源と思考を変革すれば利活用はたやすい事である。関東方面からのスキー客は県境の山深い地域に限られているが、1~2泊伸ばす事で佐渡島まで来て戴き、美味しい地魚を賞味して戴いてはどうだろうか。世界遺産への登録運動も良いが、まずは"利風・利魚・利海"に力を注いではどうか、特に冬期の北西の季節風はまさに天からの"恵みの風"である。これを利用しない手はない。佐渡は"宝の島"である。冬の日本海には"波の花"も咲いている。

註1佐渡海峡内の最深部
1)水深;538m
2)位置;N  37°46′54″
      E 138°30′06″
3)発見年月1952年(S27)6月
4)発見機関;第九海上保安本部測量による
(2014年1月17日 第九管区海上保安本部「海の相談室」より)

註2有義波高
連続観測値の高い方から1/3だけの値をとりその平均値をいう。

註3海洋深層水について
 2004年(H16)佐渡前浜松ヶ崎地区で取水施設(毎時50トン)が完成し現在深層水を原料にした化粧水の製造・更には、ほっこくあかえび・ずわいがに・あわび等の畜養も行われ、対岸の長岡市寺泊ではホテルでこの深層水を使った"深層水風呂"としても利用されている。

註4佐渡海峡内のゴミ調査
 私は1970~1971年にかけて底曳網による底魚資源調査に従事する中でビニール等の合成化学物質がどの海域でどのくらい入網するかを調べた(昭和45年度 新潟県沿岸海域における底魚類の生態資源に関する調査報告書Ⅰpp316~319)。その結果中央部佐渡海盆の最深部・長岡市寺泊大河津分水河口付近・新潟市信濃川河口付近に多く分布している事が判明した。中でも中央深海部のゴミを回収する事は困難である事、底魚類の産卵成育にさまたげとなる事は必然であり、憂慮される汚染の実態が明らかになった。このゴミは河川を介して流れ込むものが80%を占め、海上での直接的投棄は極少ないのである。陸上由来のゴミは河川に流れ込む前にはたやすく回収できるが一旦海に入ると回収は困難である。河川への流入を防止する事が海の汚染を防ぐ事につながる。

引用・参考文献
1)『日本全国沿岸海洋誌』日本海洋学会 沿岸海洋研究会編 東海大学出版会1985
 pp1017~1042
2)『新潟県気象月報』新潟気象台発行
3)『新潟県沿岸海域に於ける底魚類の生態資源に関する調査報告書Ⅰ~Ⅳ』―佐渡海峡内禁止区域の底魚類の漁業生物学的調査研究報告―浜渦清(執筆 取り纏め)新潟県水産試験場1970~1975
4)『創立百周年記念』新潟県水産海洋研究所編・発行 1999 pp234~236
5)『佐渡海峡底曳禁止区域の漁業生物学的調査報告』日本海区水産研究所1962
6)『智慧の函』―経済雇用問題論集― 2008年号 特定非営利活動法人 新潟県経済雇用問題研究所 pp76~141
7)『新潟県栽培漁業センター業務・研究報告書』 第6号 新潟県栽培漁業センター1983 pp69~98
8)『水産にいがた』「日本海水圏を考える」第280号(1990 4月号)~第297号(1992年1月号)