☆子犬のいる風景☆


  少女が最初にその子犬を見たとき、彼は街路樹の根元に鼻先をつっこんで、しきりに掘り返していた。
「ほえ・・・?」少女は首をかしげた。「子犬さん、何してるですか?」

  きゃうんっ♪

  泥だらけの鼻先を上げた子犬は、少女の問いかけを理解したかのように、嬉しげに吠えた。
「何か捜してるですか・・・?」
  子犬の傍らにしゃがみ込み、少女はなおも尋ねた。

  きゃんきゃんっ♪

  子犬は少女の足元に汚れた鼻先をすりつける。真っ白なソックスに泥がつくのも構わず、少女は子犬の頭を撫でて話を続けた。
「えと・・・千紗に何かお手伝いできることがあったらいいんだけど・・・あのね、千紗、お使いの途中なんです。だから、今すぐにはお手伝いできないんだけど・・・」

  きゃうっ♪

  子犬は、少女の足から、ついと身体を離すと、もう一声かるく吠えて、また街路樹の根元に鼻先をつっこんだ。一心不乱に穴を掘り広げ始める。
「あやや・・・」少女は立ち上がりながら、子犬の背中に話しかけた。「あのね、子犬さん、千紗、お使いを済ませたら、またここへ来るですよ。そのときもまだ、子犬さんが何か捜してるようなら、千紗、お手伝いしますから。ね?」
  少女――塚本千紗は、そう言うと、何度も何度も子犬を振り返りながら、ほてほてと歩いていった。
  真っ赤なダッフルコートに白いマフラーを巻いた彼女の、裾にボアのついたミニスカートからは暖かそうなウールのタイツに包まれた足が伸びている。もこもこしたタイツを履いているわりに着ぶくれた印象がないのは、少女が折れてしまいそうに、ほっそりした四肢の持ち主だからだろう。
「早くお使いを済ませないと」千紗は、ぴゅうっと吹きつける木枯らしに身を震わせて呟いた。「子犬さん、ひとりで何か捜すのは大変ですぅ」
  大きな茶封筒を抱え直し、千紗は足を速めた。
  彼女の「お使い」は、家業の印刷所が受けた仕事の試し刷りを注文主のところに届けることだ。さして時間がかかる用事ではない。
  それでも、千紗は一刻も早く子犬のところへ戻ってやりたくて、ほてほて、という歩き方を、ほててて、ぐらいに速めていた。

  きゅぅ・・・ん・・・

  掘りかけていた穴から鼻先を上げ、子犬は寂しげに周囲を見回した。
  今まで傍にいてくれた赤いコートの少女の姿を求め、何度も鼻を鳴らす。
「あれ?どうしたの?」
  明るい声が子犬に呼びかけた。
  子犬は声の主を見あげて目をぱちくりさせた。
「ん?何か捜してるのかな?ボクに手伝える?」
  声の主は、この寒いなか、すらりとしたナマ脚を惜し気もなく、さらけ出していた。ミニのキュロットと羽織っている上着は、どちらも光沢のある革製だ。ショートカットの髪にぴったりの活動的なファッションである。
  そして、足元を固める、ぴかぴかに磨き上げられたショートブーツに子犬は鼻先をすり寄せた。
「あははっ、ダメだよ!」明るい笑い声とともに、子犬はさっと抱きあげられた。「せっかく磨いてきたんだからね、このブーツ。泥がついたら悲しいじゃん!」

  きゃん、きゃんっ!

  いきなり抱きあげられた子犬は、嬉しいのと驚いたのとで、ちぎれそうなほどに尻尾を振って、一生懸命に吠える。
「こらこらっ!」ショートカットの髪をかき上げ、声の主は嬉しそうに笑った。「ダメだよっ、そんなに吠えたりして・・・耳がイタイよっ!」

  きゅう?

  言葉が解ったかのように、子犬は吠えるのを止めた。くんくんと鼻を鳴らしながら、自分を抱きあげている人間の頬をぺろぺろと舐める。
「くすぐったいよ、おまえ・・・おまえ、てゆうのも変だね」声の主は、ふと真顔になった。「名前、なんていうの?ボクは玲子。芳賀玲子だよ!」

  きゃうんっ♪

  子犬が返事をして、また尻尾を振った。
「判んないよね、そんなの」玲子は笑った。「んじゃ、チビ!チビでいいかな?」
  玲子はそう言うと、ぽん、と子犬を地面に降ろした。子犬は嬉しそうに玲子の足元にじゃれついてくる。
「遊びたいの?」玲子は首をかしげた。「そだよね。独りで寂しそうだったもんね、チビ。よしっ!」
  玲子は腰に手を当てて、ニカッと笑った。
「遊ぼっ!ボク、まだバイトまで時間あるしさ。おまえ、独りで何してたの?」
  子犬は玲子の言葉に、くるっと身をひるがえして街路樹の根元に駆け寄った。さっきまで掘り返していた穴に鼻先をつっこみ、また広げ始める。
「穴?掘るの?」
  玲子は子犬のそばに躊躇なく膝をついた。手をのばし、子犬の鼻先に並べて穴を掘り始める。
「何が出てくるのかな?」玲子は穴を掘りながら真剣な表情で尋ねた。「宝箱とか出てきたら、すごいよね。そしたら山分けにしようねっ!」

  きゃんきゃんっ!

  子犬は顔を上げ、嬉しそうに吠えると、次の瞬間、くるっと振り向いて走りだした。
「あ、ちょっとちょっと、チビ!」
  玲子も慌てて振り向く。可愛い鼻の頭に泥がはねて、ちょっと間抜けな表情になっていた。
「あ〜、子犬さん」ほててて・・・と走ってきた少女が、息を切らしながら呼びかけた。「待っててくれたですか?千紗、急いで、おつかい済ませてきたですよ」
  千紗は服が泥だらけになるのにも構わず、子犬を抱きあげる。
「チビ、どうしたの?」
  そう呼んだ玲子の視線と千紗の視線が合った。
「あや・・・?」千紗は首をかしげた。「チビ・・・って、この子、おねえさんのワンちゃんだったですか?」
「そういう訳じゃないよ」玲子は、にっこり笑って答えた。「ボク、ここでこの子に会っただけだもん。キミ・・・あそこの印刷屋さんの子だよね?塚本サンとこの・・・千紗ちゃんだっけ?」
「はい、そうですぅ」千紗も笑い返す。「おねえさん、ゲームセンターにいるおねえさんですよね?」
「うん、あそこでバイトしてる・・・だけど、おねえさん、は止めてね」玲子は肩をすくめた。「トシ、変わんないでしょ?ボクは玲子だよ!」
「はい、玲子さん、ですね?」
「そう呼んでくれると嬉しいな♪」
  玲子は明るくうなずくと、子犬の鼻先をつんとつついた。

  きゃふぅっ!

  子犬は鼻先に伸びてきた玲子の指を、ぺろりと舐める。
「んもぉ、くすぐったいよぉっ!」
  玲子が、くすくす笑う。
「おねえさんも、この子犬さんと仲良くなったですか?」
  千紗も嬉しそうに笑う。
「うん、独りで寂しそうだったから一緒に遊ぼうと思ったんだ」そう言うと、玲子はひょいと子犬を抱き取り、そっと地面に降ろした。「そしたら、いきなり掘り始めちゃって」
  子犬は、地面に足が着くや、また街路樹の根元に駆け寄った。また、穴に鼻先を突っ込んで泥をはね飛ばし始める。
「あ〜、子犬さん、やっぱり何か捜してるですか?」
  千紗が膝をつき、子犬を手伝おうとしたときだ。

  あんっ!

  子犬が嬉しそうに吠えると、穴の奥から何か引きずり出した。
「なぁに?」
  玲子が覗き込む。
「ボールですぅ!」千紗が嬉しそうに手を打ち合わせる。「子犬さん、これを捜してたですか!」
  ボール、と云っても、もう半分、空気が抜けてしまったような、へちゃけたピンク色の塊だが、子犬にとっては最高のおもちゃなのだろう。広い場所へくわえていって、落としてはくわえ、くわえては落とし、して遊び始める。
「よしっ!ボクが投げてあげる!」
  玲子は子犬の足下からピンク色の「もと」ボールを拾い上げ、軽く、ぽいっと投げた。
「子犬さん、こっちですよぉ!」
  千紗が楽しげに言うと、先に立ってボールのほうへ走りだす。
「んもぉ、千紗ちゃんが遊んじゃって、どうするの?」
  玲子は苦笑して走ってゆく千紗を見送った。
  千紗の白いマフラーが風になびき、その端っこに飛びつこうとするかのように、子犬が跳ねながらついてゆく。
「よぉし、ボクも走っちゃお!」
  ショートブーツが土を蹴り、子犬と千紗を追いかけた。
「玲子さぁん!」
  もう、だいぶ遠くへ行ってしまった千紗が大きく手を振る。いつの間にか、ボールを追いかけることなど、忘れてしまったらしい。ただ走ることが楽しいという様子で、子犬とじゃれながら、走ったり、足を留めたりしている。
「ボクもそっちへ行くよ!」
  玲子も笑顔になって千紗のほうに走る。
  二人の少女と子犬は、暗くなるまで走り回って遊んだ。

  あんっ!あんっ!

  陽がすっかり落ちたころ、子犬は楽しげに吠えると、尻尾を振って二人の少女に別れを告げた。

  あおぉぉん・・・

  何処かで優しい遠ぼえが響く。

「お母さん、ですか?」千紗が子犬を見た。「お母さんが呼んでるですか?」

  きゃうっ!

  子犬は嬉しそうに跳ね上がると、とっとと走っていった。子犬の行く先に、夕日を背に受けた大型犬のシルエットが浮かんでいる。
「ああ、やっぱり、そうなんだ」玲子が言った。「お母さんがいたんだね、ちゃんと」
「はいですぅ」千紗は、にこにこ笑う。「遅くなっちゃいました。うちのお母さんも心配してるかもしれないですねぇ・・・」
「そだね」何気なく腕時計に目を落とした玲子は、『げげっ』という表情になった。「いけね、ボク、バイトに行かなきゃ!」
  玲子は、くるっと身をひるがえした。
「玲子さん!」千紗が呼びかける。「また遊びましょうねぇ♪」
「うんっ!」玲子は大きく手を振って笑った。「また遊ぼ!千紗ちゃんもゲーセンにおいでよ!一緒にガッシュさまに萌えよ!」
「はいぃ?」
  きょとんと首を傾げる千紗には構わず、玲子はショッピングモールのほうへと走っていった。
  ショートブーツが舗道を蹴る軽快な音が、千紗の心をも家路へと急がせる。
「じゃ、またね・・・子犬さん、玲子さん☆」
  千紗も夕陽のなかを歩きだした。
  次に二人の少女が出会うのは<こみっくパ〜ティ〜>の会場で、かもしれない・・・。

                            ☆おしまい☆